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ミーハー記念日第13回(前編) 握手の人〜リリー・フランキーさん〜

※こちらの文章はまだ挿絵がない状態の不完全のものです。
「握手の人(前編)」 

 ベンチで1回、自作の詩を朗読してから僕は鞄にしまっておいたMDウォークマンを取り出して、景気づけにその1曲目を聴いてみようとした。
 しかし、その時、ワンコーラスも再生することなく僕のウォークマンは電池切れを起こした。これは悪い兆しか? それとも…と思ったが、深く考えずに僕はふと、うしろを振り返った。
 僕の背後に立ちはだかっていたのは、あの日本武道館だった。
ジョン、と、僕は思った。
 この日僕がウォークマンに入れておいたのは、ジョン・レノンのファーストソロアルバム「ジョンの魂(邦題)」だった。その1曲目「マザー」を聴くために僕はこのときMDを再生しようとしたのだった。


 西荻窪の奇聞屋で月に1度の詩の朗読を初めてから10ヶ月ほどしたあるとき、朗読会で知り合った人に誘われて、僕は「詩のボクシング」という詩の朗読の大会に出場することにした。
 僕はこの大会について詳しいことは知らなかったが、谷川俊太郎さんとねじめ正一さんが、かつてこのイベントで対戦したということだけは知っていた。谷川さんたちが戦ったのは作家同士が戦うプロの大会であり、僕が出場したのは全国16都道府県で勝ちあがった素人チャンピオン同士が戦って全国1位を決定する素人大会である。
 ここで簡単に詩のボクシングのルールを説明させていただく。
 ステージ上にロープを張ってボクシングのようなリングを作り、赤コーナーと青コーナーに別れた2人の朗読詩人が、それぞれ3分づつ自作の詩を朗読する。その朗読の内容を審査員がジャッジし、勝敗を決める。大会はトーナメント式で、一回ごとに違う詩を読み、決勝では持参した作品だけではなく即興の詩も読むことになる。
 僕が参加したのは「第3回詩のボクシング全国大会」で、全国大会の前には「東京予選」と「東京決勝大会」という2つの戦いがあった。
 東京予選は各地の予選にくらべて参加者が多く、100人弱だったらしい。予選当日、僕は相方の目黒と渋谷で朝まで遊んでいて、酒でノドがつぶれぎみだったが、眠らないで渋谷から直接会場に行ったおかげで遅刻をせずに済んだ。
 その予選から数か月後、4月の終わりに東京決勝大会のトーナメントが行われた。
 会場は日本武道館の隣にある「科学技術館」である。
 先程僕がウォークマンでジョン・レノンのマザーを聞こうとしていたのは、この試合開始の直前だった。
 僕がこのとき、この曲を聞こうとしていたのには理由がある。この大会のために用意していた朗読用の詩が、すべて母親についてのものだったからだ。僕はこの作品を書いた頃、ある人に
「母親についての詩ならジョン・レノンのファーストアルバムを聞いてごらん」
と言われ、聞いてみたところ、僕はこのアルバムをとても気に入った。この大会に出場したとき僕は25才で、25才の青年が大勢の前で母親についての詩を朗読という形で発表することに僕は多少のためらいを持っていた。そんなためらいを払拭し、背中を押してもらうために、僕は「マザー」を用意して行ったのだが、当日それを聞くことはできなかった。
 ベンチに座りながら武道館を振り返った僕は曲を聴くことをあきらめ、そのまま武道館のほうへと歩いて行った。
 そうだ。ジョンはその昔、ここで3人の仲間と一緒にコンサートを行ったんだ、と僕は思った。そんなことを想いながら、僕は日本武道館の中へと吸い込まれるように入って行った。この日は柔道の日本選手権の当日で、僕が会場に入ったまさにそのとき、決勝戦が始まろうとしていた。
 決勝を戦う2人を、もの凄い数のスポットライトが照らし出し、会場は凄まじい熱気と歓声に包まれた。
 しかし、互いに死力をつくすふたりの選手や、声援を送る観衆をよそに、僕は不謹慎ではあるが、数十年前にここでコンサートを行った4人のイギリス人の若者のことを考えていた。
 そして次に、この、目の前を360度取り囲んでいる観衆が僕一人を見つめていることを想像してみた。それから僕は小さな声で自分の作品を1遍読み上げた。すると、会場から大きな声援と共にすべてを包み込むような拍手が巻き起こった。
 試合が終わったのだ。
 優勝は井上康生という選手だった。当時の僕は彼を知らなかったが、その名を覚えて、そこを去った。会場を出るとき、僕は一度だけ振り返り、あの熱気と緊張を教えてくれたことに感謝して武道館に一礼した。

 そんなことがあった数時間後、僕は詩のボクシング東京決勝大会で優勝した。
 普段、多くの人の前に出て声を出すなどということをしたことがない僕だったが、この日、大会を観に来た500人あまりの観衆にびびりながらも、自分のペースを崩すことなく朗読できたのは、直前の日本武道館での体験のおかげだと思う。
 それにしても、自分のペースで朗読ができたとはいえ、リングの上では手も足も声さえもぶるぶる震えていたのだから、今自分で今考えても良く勝てたものだと思う。
 ただ、僕は他の参加者と違って、身の回りの人間にはまったく大会に参加することを告げていなかったのでその点において非常に気が楽だった。この調子で全国大会でも上手く自分のペースを保つことができるなら、たとえ途中で負けたって素晴らしいし、うれしい、と僕は考えていた。
 勝ち負けではなく、たとえ一回戦で負けたとしても、自分のペースを崩さないで多くの人に耳を傾けてもらうことが大切である。日本武道館でジョン・レノンを想ったことや、井上選手との(一方的な)会話こそがとても得難い貴重な体験であって、勝ち負けなどは本当にどうでもいいことなのだ。

 と、いうのは詩のボクシング出場者としての僕の気持ちであり、実際詩のボクシングの会場で他の選手や主催者、もしくは審査員などと話をしているときにはこの純粋・純情な好青年としての考え方を全面に押し出しており、自分でもそう思い込むようにしていた。
 しかし、この日東京大会で優勝して会場の外に出た僕は、生涯で初ともいえるこの勝利を、どのようにして自分の今後の“遊び”に結び付けていこうかと悪知恵を働かせていた。

 そういうわけで、僕は東京の代表になってから約2ヶ月後の全国大会に出場するまでの間に、大会で読んだ詩やその他の文章を持っていくつかの出版社をまわった。知り合いの編集者や、興味を持ってくれそうな編集者を尋ね、作品を見せて詩のボクシングについて多少説明をした。つまり「優勝したら多少は話題になりまっせ!」と売り込んだわけだが、何人かの編集者は作品や話題性に興味を持ったものの、実際に僕が全国大会で優勝するかどうかが現時点ではまったくわからないのでやはり一同に首をかしげた。
 しかし、この時点でちょっと他とは違った反応をしてくれたのが、ソニーミュージックの鈴木さんだった。鈴木さんは、普段はクラシックや落語などのCDのプロモーションを手掛けている。以前からの知り合いで、過去に僕たちのデザイン事務所でデザインの仕事を受けたこともあった。時々酒を飲みに行くこともあったのだが、実はこの東京大会に出る1年ほど前に前述のジョンレノンの曲を僕に勧めてくれたのもこの人だった。
 鈴木さんは、僕の詩を僕の声でCD化するということについて現実的に考えてくれた。僕が全国大会出場を決めただけのこの段階で、商品化に向けて社内でプレゼンテーションを行い、全国大会終了直後の発売に向け、時間をつめて企画を押し進めてくれた。
 僕にプレッシャーをかけないためだと思うが「もし一回戦で負けたら、一回戦敗退を売り文句にして発売しよう(笑)」とも言ってくれた。 そんなこんなで僕は全国大会を前に、いやらしくも大会終了後のCD発売の話を水面下で進めていたのだった。詩の朗読は勝ち負けじゃない、という顔をしながらもこんなことを考えていたのである。
 そして、ソニーのCDの話が徐々にすすむうちに、CDの帯や販売促進物に使用するライナーノート(推薦文)を誰に書いてもらうか、という話になった。そんな会話になったとき、僕の頭にぱっと思い浮かんだ人物がいた。それがリリー・フランキーさんだった。

 ここで僕はぱっと頭に浮かんだなどと書いてしまったが、僕はリリーさんに推薦文をお願いできる程親しいわけではなかった。というか、この時点で僕はあるイベントで一度だけお会いしただけだった。それも、その1回というのは観客と主催者としてである。それでもこのときリリーさんの名前が思い浮かんだのは偶然ではなく、とても必然的な気がしている。もちろんこれも武道館でのジョンや井上さんとの会話同様に、「一方的に」ではあるのだが…。

 リリーさんと初めてお会いしたのは新宿のライブハウスで行われた「スナック・リリー」というトークイベントだった。僕はこのイベントに行った時点ではリリーさんのことを詳しくは知らず、ただ、僕とは縁の遠いオシャレな感じの人、という印象だけはあった。しかしこのイベントは、実際に行ってみるとオシャレでもなんでもなくて、全裸に近い格好の男性(警察におこられますか?本田)がステージや客席を行ったり来たりし、トークの内容はほとんどが下ネタだったり、とにかくめちゃくちゃだった。…めちゃくちゃに面白かった。


 僕はこのイベントに当時付き合っていた女の子に連れられて行った。
 彼女はリリーさんのラジオ番組が好きで、番組にメールを出したりしていた。 その日僕は彼女と会場に入ってからアンケートのようなものを書いて提出した。リリーさんに対する質問や相談を書き、ステージの上のリリーさんがこれに答えながらトークを進めていく。ちなみにこのトークライブは夜7時から始まり、朝5時くらいまで続くという怒濤のライブである。
 ライブが始まってまもなくすると、一緒に行った女の子のアンケート用紙がリリーさんに読まれ、彼女はステージに上がって話をした。そしてステージ上の出演者と彼女が話をするうちに、一緒に会場を訪れていた僕の話になり、僕もステージに上がった。
 リリーさんが僕を見た瞬間に発した言葉はこんな言葉だった。
「君〜、短命そうだね〜!」
 この頃の僕はもしかすると、とても生命エネルギーが弱っていたのかも知れない。
 この発言はこの日のうちにリリーさん本人によって撤回されることになるのだが、それでもステージに上がったときの僕は、たぶん非常に頼りなく、弱々しかったのだと思う。自分でも「短命そう」という言葉には妙に納得したのを覚えている。
 ステージ上ではリリーさんがすらすらと色々な話をしてくれて、あっという間に時間が過ぎた。僕はあまりに突然のことだったので何を言うでもなく自分に関する話が終わると、早々にステージを降りようとした。連れの女の子はリリーさんにサインを求めていたが、僕は他のファンのみなさんを差し置いて僕のような者がサインを頂くことなど出来ないと思い、とても引け腰だった。そういうわけで足早にステージを降りようとした僕をうしろから呼んだ人がいた。
「本田くん、…握手!」
 リリーさんだった。
 握手という行為はどうも照れくさい感じがあるので、普段僕は一瞬ためらってしまうのだが、この時はとても自然に握手を交わすことができた。コソコソとステージを去ろうとした僕の心情を察しているかのような、絶妙のタイミングで、リリーさんは声をかけて下さったのである。あのリリーさんの握手のおかげで僕は、彼女が先に終電で帰ってしまったにもかかわらず、朝までそこに残ってライブを楽しむことができた。
 ただ、もしかすると僕は少し楽しみすぎたのかも知れない。
 このあと、深夜過ぎにある女の子が「私は二十●才なのにまだ処女です」という相談をした。リリーさんは彼女に、「かわいいんだから、気にするな」と言って励ますと同時に、「この場で彼女と真剣に付き合ってみたい人は手を挙げて」と、恋人を見つけてあげようとした。しかしその場にいた男性は照れていたのか誰も手を挙げなかった。
 そんなことがあってから何時間か他のトークをしたあとで、またこの女の子の話題に戻り、「じゃ、さっきは照れて手を挙げられなかったけど、やっぱり彼女と付き合ってみたいと思った人は手を挙げて」とリリーさんが言ったにも関わらず、手を挙げた男性はいなかった。
 そこで、リリーさんが「急に付き合うとかじゃなくてお友だちからって人もいないの?」と言ったとき、やっと一人の男が手を挙げた。そしてその男の方に目を向けたリリーさんは、すこし驚きながら言った。
「あれ?お前、さっきのあの子の彼氏じゃん・・」
 手を挙げたのは、僕だった。連れの女の子が帰ったあとだったので、こんなチャンスを逃す手はない、と思い僕は会場から白い目で見られることを覚悟して、手を挙げたのだった。そんな僕に対してこの日の司会をしていた吉田豪さんは
「なんか彼は彼女が帰ってから急に豹変して生き生きしてきましたよ…」
 というようなことを言っていた。続けてリリーさんが言う。
「君は短命そうだと思ったけど、以外にアレなんだね…」
 そう言われながらも、僕はとりあえず彼女の連絡先を聞き出さねばならないと思ってこう返した。
「あの、とりあえずは、お友だちから・・」
「あ〜〜はいはい、もうあれだね、徹夜明けでイカレてきてる人は放っておいて・・他に誰かいないの?」
リリーさんはそう言いって、一度は僕から話をそらし他の男性が名乗り出るのを待ったものの、結局僕以外には手を挙げた人がいなかったので僕は彼女のメールアドレスを手に入れることになった。
 僕はこの日からしばらくの間、彼女とメールのやりとりをした。はじめ彼女は「誰も挙げてくれなかったので、社交辞令でも助かりました」という様なことを言ってきたので、僕は「社交辞令だなんてとんでもない。これからよろしくお願いします」というような答えを返したのだが、どうも出逢いが出逢いだっただけにその後は連絡も滞り、互いにフェードアウトしてしまったのだった。
 とにかく、僕はこの日のライブを心から楽しみつくしたのであった。

 CDのライナーノートの話になったとき僕は真っ先にあの日のリリーさんの顔と、あの握手が頭に浮かんだ。僕がお願いしてそれを了承してもらえる根拠はまったくなく、僕は連絡先さえ知らなかったが、とにかくリリーさんにお願いしたいということを、何度目かの打ち合わせのときに僕は鈴木さんに言った。
 それからリリーさんのHPにアクセスし、そこに記載されているアドレスに少し長めのメールを送ったところ、その日のうちに事務所のスタッフの方がお返事をくださり、そのすぐあとでリリーさんが僕の携帯に直接電話をかけてきてくれた。そしてそのときにはもう「書くよ」というOKの返事を下さったのだった。
 ライナーノートを書いてくれる人も決まり、後は大会で優勝してCDを出すだけ、となったときにソニーからこれまた面白い提案があった。それは次のようなものだった。
「大会まで時間がないので、大会が終わってからレコーディングをするつもりだったけど、もし良ければ大会の前にレコーディングを終わらせませんか? 勝っても負けてもCDを出すことは間違いないし、僕たちスタッフや本田くんも含めて、もし万が一負けてしまった場合、どうしても制作に対する勢いが落ちることは避けられないから、事前に収録を済ませてしまうのがベストではないかな?」
 というのがその提案である。
大会で負けてしまった場合に、勢いがなくなるというのはありうる話だと思ったので僕は事前にレコーディングを行うことにした。ところが、これを承諾したまでは良かったが、スタジオ、プロデューサー、エンジニア、そして僕のスケジュールを合わせて考えたところ、レコーディングが可能な日は、全国大会の前日だけということになってしまったのだった。

後半へつづく

※このテキストは2000年頃に執筆し、2005年頃に某出版社から発行される予定だったものです。15章ほど書いた後で出版が中止になりお蔵入りしていましたが久しぶりにnoteにて公開させていただきます。


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