見出し画像

喫茶ざくろ(1)

 その土地は海を抱き、山を背負い、いわゆる大自然に囲まれた地域で、民家が点在していた。だが、人が住んでいるかそうでないか、見分けがつかない家が多かった。

 グルメブロガーのテラサーこと寺澤仁は電車とバスを乗り継いで数時間。新しくできたカフェの評判を知り合いから聞きつけて、都心とは正反対の景色を見せるこの土地にやってきた。

 喫茶ざくろ。

 田畑の中にひっそりと建つ平屋と倉庫。倉庫の外に積み上げられた薪がバス停からの目印になる。カフェは倉庫の方だ。倉庫と行っても民家についているものなので、車が3台くらい余裕で入る広さ、木造で屋根がクルミ色、壁がスモーキーなグリーンで塗装されていた。
 喫茶ざくろは一日一組だけの予約制で、日中だけの営業だ。駐車場がないので車での来店はできず、写真撮影やレビューサイトへの掲載はお断りという店で、それが守れる客のみ予約をすることができた。

 寺澤はSNSで喫茶ざくろについての書き込みを調べてみると、わずかながら書き込みがあった。評判がいいのはビーフシチューとミートパイ。洋食だけでなく豚汁定食もあり、味噌は店主のお手製という。こちらも手作りの山ぶどうジャムがついたスコーンなんかも人気。料理はもちろん、店の内装についても店主の手作りで、こだわりが感じられる。田園風景の中でカフェをやる。これが丁寧は暮らしってもんかな、と都会育ちの寺澤は思った。

 ステンドグラスがはめ込まれたドアを開けるとベルが鳴った。正面のキッチンカウンターに店主と思われる女性が立っていた。

 「予約した寺澤と申します」
 「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
 目じりを下げて笑顔で迎え入れた女性は40代前半くらいかな、と寺澤は思った。艶やかでコシのある黒髪は後ろでまとめてシニヨンにし、メイクはファンデーションと眉墨だけの質素なものだった。ワンピースはリネンを使ったサックワンピースに靴は
ビルケンシュトック。本屋で見かける、特定の女性誌の表紙で見かけるスタイル。これが丁寧は暮らしってもんかな、と寺澤は改めて思った。寺澤は中央にある、一つだけのテーブルに案内された。

 「お一人でやられてるんですか」
 寺澤はキッチンで作業をしている女に尋ねた。キッチンとホールはカウンターだけで仕切られており、客と店主は自由に話すことができた。
 「そうなんですよ。以前は東京のレストランで働いていたんですけど……のんびり、気楽にやりたくなりましてね」
 女は話し方ものんびりしていた。

 「さぁ、できましたぁ」
 寺澤の目の前にビーフシチューとサラダとパンが配膳された。
 「ありがとうございます。いただきます」
 寺澤は両手を合わせてから、カトラリーを手に取った。
 深いブラウンのソースに沈んだ肉にナイフを入れると、ホロホロとくずれる。かなり長時間煮込んだと思うが、濃厚な旨味が舌にのる。添えられたシャトー切りの人参は甘く、じゃがいもにソースを載せて口に入れると、ソースのありのままの旨さを感じることができた。

 旨さを堪能するままに食は進み、寺澤はあっという間に平らげた。
 「ごちそうさまでした」
 寺澤は食べ始めと同じように手を合わせた。

 食後には温かい紅茶と手作りのクッキーが供された。寺澤がカウンター越しに店主の女を見ると、ゆったりとしたスピードで洗い物をしている。
 「瀬尾さん」
 寺澤が名前を呼ぶと、店主の女の動きがピタッと止まった。店内には水道の水が流れる音だけが響いている。寺澤はその音に打ち消されないよう、声量を上げて言った。
 「オーナーが……心配してますよ……連絡してあげてくだ――」
 「紅茶のおかわりいかがですかぁ?」
 瀬尾は寺澤の方を見ずに言い放ち、彼の言葉を遮った。二コリともしない瀬尾の表情を見ると、寺澤は言葉を飲み込まずにいられなかった。
 すぐに寺澤の前に新しい紅茶が供された。寺澤はカップを両手で持ち、手のひらを温めながら紅茶を飲んだ。瀬尾は彼に目もくれず、洗い物を続けている。寺澤は気持ちを落ち着かせるために外の風景を見やった。人が誰も通らない。次第に寺澤は頭がボーっとするのを感じた。
 「あ……あ……」
 眠くなるほど満腹にはなっていない。抵抗できない程の眠気に寺澤は困惑した。せめてカップを壊さないよう、両手でソーサーの上にカップを置いたが、そのまま力尽きるように、寺澤はテーブルに身を伏せた。

 店内には水道の水が流れる音だけが響いていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?