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イメージ・クラゲ論

これは書くことの研究なのだ。であれば書くこと自体を見つめる目が生まれることになる。それは一つの現実の創造であり、僕の中に新しい空間が生まれることでもある。空間が生まれるとそこに風が吹き、時間が生まれ流れることもあるし流れなかったり逆流したり、滞留したり色々だ。余裕が生まれることにもなる。寝る前に画面を見続けたせいか目の奥が痺れるように固まっていて、目の前を見ているのかどこにつながっているのかわからないが、書いているこれとはつながっている。文字を通して繋がる空間には流れがある。嘘を書くことはできない。つまらないことは続かない。と言っても教養のないこの頭から出てくるのは下品なことばかりで、まあそれもしょうがないのだ。書くことは何かを知りたいなら、まずはとにかく沢山書くことから始めよう、というのが素人なりの考えで、そこから始めることにした。学校では書かされるばかりで、それは書くこととはまったく違う。書きたいから書くが、まずもって最初の基準だ。書きたくて書いている時の感触は明らかに違う。学校で書くものの中に本当のことを書くことなんて、少なくとも僕はなかった。そして書かされているうちに自分の書きたいことも書き方も薄められ忘れていってしまう。それは言葉を奪われることで、とても危険なことだ。国のやり方としては、とても上手くいっているというわけだ。ここまでもここからも頭のおかしい妄想が書き綴られていくが、妄想ももちろん新しい空間を生むのだから、問題はない。イメージと書くことの関係、その密接な関わりも考えてみよう。書く前に頭の中で何が起こっているのか、そもそもイメージとは頭の中のものなのか。僕はイメージが頭の中だけに収まるものではないと思っている、確信していると言ってもいいかもしれない。イメージは頭どころか、身体中から漏れ出してその人の周りの空間まで染み出して侵食している。それをオーラと呼ぶ人がいるのかもしれない。僕は見えたことはない。こうやってスピリチュアルな話になると、おお出た出たと敬遠する人の気持ちもわかるが、そっちには深入りしてはいかない。そもそもが妄想だからオカルトのようなものか、まあそれはいいとして。身体にとどまることはないイメージが漏れ出して現実という空間を侵す、それは新しい空間が生まれ広がっていくことだ。人と人が出会って話し合うとき、イメージを内に留めていない人同士であれば、言葉を交わす以外にも交信している。言葉ではない、言葉にはならない情報のやり取りがそこで行われる。イメージを触手のようにうねうねと外に向かって伸ばして互いに手を取り合う、そこにはえも言われぬ喜びのような痺れがある。イメージの触手はほとんどクラゲのそれだ。イメージはクラゲだった。クラゲのようにふわふわゆらゆらと海中を漂う。それは人体から離れていくこともあるし、分裂して数が増えることもある。クラゲは無性生殖といって分裂することによって数を増やすことができるのだ。イメージ自体も付着した人体から分裂し流れにのって進んでいく。その過程でまた分裂をしてイメージはいろんなところへと流され行き着いていく。クラゲは自ら泳ぐこともできるが、それは主に体液の循環のためであり移動が目的ではない。あくまで水流に任せてクラゲは運ばれていく、流れに任せているのだ。イメージも同じだ。新鮮さを失わないように運動をしながらあくまで行き着くところは流れに任せている、しかるべきところに流れ着くことをイメージは知っている。知らずとも結果的にはそうなる。この妄想というイメージもこれを読んでいるあなたのところへ流れ着いているわけだ。電子の海をイメージが流れていく、流れにのって分裂しながら。しかし分裂ができるのは、成熟前のまだ幼く未熟な段階に限られる。クラゲは成熟すると、よく見る傘を持った姿は成熟したクラゲだ、有性生殖をすることになる。オスとメスが出会い繁殖し受精卵から新たなプラヌラ幼生が生まれる。この時大変なのは、クラゲは流れの中に生きているわけだから、当然オスもメスも流れにのって流されているわけだ、互いのタイミングが合わなければ生殖は成功せずに失敗に終わる。偶然や条件に大きく左右される。流れているイメージ同士が出会う時、ここではそれぞれ別の人から生まれたイメージとしよう、タイミングが重要になる。それは奇跡と言ってもいい偶然によるかもしれないし、不思議な条件が揃った結果であるかもしれない。いずれにせよ、まさにここで、というタイミングで出会ったイメージ同士が、それは人の出会いとも言い換えられる、つながって新しいイメージが生まれるのだ。たくさんの人に会うことが新しいイメージが生むというのは本当だろう。それが唯一ではないにしろ。無性生殖との違いは有性生殖は新しいものを生むということだ。新しい創造だ。無性生殖はポリプというプラヌラの次の形態で行われる。イメージもまだ成熟していない段階では分裂しさまざまなところに流れていくわけだが、ある程度成長し成熟した段階では他のイメージと触れ合うことが大事で、そこで新しいものが生まれる。クラゲの触手は知られているように毒を持つものもある。イメージも触れ合うタイミング、人によってはショックを与えることになる。それは怪我とも言えるし、ショック療法や電気でしびれたように自分の脳内のイメージが新たに発光することもあるだろう。触手の跡が体に残り、その跡を眺めてその痺れをその瞬間を思い出す。痕跡を見てどうイメージするかはその人の自由である。それはイメージの痕跡であり、その人自身のイメージでもある。クラゲは触手を用いて動物性プランクトンや小魚を捕食する、そうしてクラゲ自身は成長を続けていく。触手は成長のための毒を持った武器でもあるわけだ。イメージで絡めとる色々もそのイメージ自身の成長を助ける栄養としてエネルギーになっていく。クラゲは他の動物には見ない成長、さまざまな形態を経て成体となる。イメージも成熟したものとなる前にさまざまな形態となってその都度形を変えて成長していくのだ。目に見える形は変わってもそれは一匹のクラゲであるように、心臓も脳も持たないほとんど水分でできたその体のように、イメージも外から見える形は変わって見えてもその中に含まれるものは変わっていない。変わっていないものが含まれている。どんな形を取ろうとも流れ出すイメージには変わらない部分が含まれているということは、しょっちゅう考えが変わると悩む人の、枠に収まろうと窮屈に縮まって死にたくなる人を解放する道になるのではないか。変わり続ける中にも変わらない部分があることを知っていれば変わることへの恐怖をよりそのままに受け止められる。イメージはもはやその人自身であるとも言える。イメージは変わり続けるその人のことだ。イメージすることは自分自身について考えることだ。怖いことも恐ろしいことも楽しいことも嬉しいことも自分自身だったのだ。寂しさや不安も自分なのだから大切にしなければならない。嫌だと言って無理に切り離したりしない。しかるべき時には自然と流れに流されていく。イメージとなって流れていく。
クラゲが透明であることも大切なことだ。クラゲは基本的に流れにのって移動しているために、自ら捕食者から逃げることが難しい。その時に透明であることは有効なカモフラージュになる。光の少ない深海では特に。イメージにも自ら色をつけようと無理しないことは大事かもしれない。色をつけるとは、自らのエゴや何かしらの目的を持ったイメージであり、ただ水のように自らの奥から湧いてきたイメージはほとんど色を持たない。水のように透明なイメージは変なものに捉われずに流れを進んで行き着くべきところに行き着けるのだ。時にはより深いところを静かに通って、光のない暗く静かな流れにのって。時にイメージは発光する。クラゲが発光することで獲物を呼び寄せるように。発光し点滅するイメージは何を惹きつけるのか知っていて光を発する。しかるべきものがその近くによってきてその栄養となる。そうしてイメージは成長し変化し成熟へと向かっていく。透明な体は太陽の光、紫外線に弱い。光をそのまま通してしまい、細胞を傷つけられてしまう。だからイメージは人体を必要とする。そのままイメージだけで流れ続けていてはいられない。いずれ死滅してしまう。最終的には人に行き着くのだ。イメージは人へ届くために流れている。人を探している、と言ってもいいかもしれない。イメージは流れながら成長し人に行き着き、また離れて流れ、また人に行き着く。時に人同士がイメージを持ち合って出会い、新たなイメージがそこで生まれる。流れ生まれて成長を続ける。創造は永遠に続く。
クラゲは不死とも言われる。多種多様なクラゲの中には一年の寿命のものもいれば、不老不死の能力を持つものもいる。ベニクラゲは命の危機を察知すると成体から幼体に戻り、また再び成体になることができる。これが不老不死の能力だ。しかしいつでもどこでもというわけにはいかない。捕食者に食べられることもあるし、海水の環境、温度や汚れによっては若返ることができない場合もある。成熟したイメージもまた新鮮な、成熟前の状態に戻ることができる。そして分裂することで多くの場所に、人に流れ着くことが可能になるのだ。イメージも死ぬことはない。変なものに絡め取られたり、汚れ切った環境に滞留しなければ、イメージは流れ続けることができる。
自分自身がクラゲとなって、イメージはその人自身でもあるわけだから、イメージの触手を伸ばし流れているイメージを捕える。自然と流れて着いてきたイメージを自分自身のイメージとして、自分自身として自分の中で成長させ、それはつまり自分が成長、変化することだ。そしてまたイメージを流す。イメージはそこらじゅうに、「現実」の中を流れは縦横無尽に流れていて、時間や空間も重なり合い入り乱れた中を自由に流れている。イメージはその流れにのっている。イメージを持つ人がイメージを見つける。時に発光しているイメージを見つけ、それに吸い寄せられる。もはやイメージが人を求め繋がるのか、人がイメージを捉えるのか、わからないそのどちらでもある、それは混ざり合っている。人とイメージの境は溶けて、イメージ同士が出会う。互いに発光しあったイメージが合わさる時、そこに強烈な光が生まれる。
書くことを書くつもりがイメージの話になってしまった。予測のつかないところが書くことの楽しさ、その性質の一つだ。それはまさにイメージそのものだ。変化をし続ける一つの形。「書く」はイメージだった。つまり書くという行為はその人自身だ、とも言える。
「書く」はイメージそのもので変化を続ける一つの形だ。これが書くの一つの性質だ。

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