見出し画像

中関白家の横暴

NHK大河ドラマ 光の君へ「華の影」

主君: 一条天皇

藤原北家は結局、皆、横暴な貴族なんですけれども・・・
中関白家
関白: 藤原道隆(兼家の長男で道兼・道長の兄。正二位)
妻: 高階貴子(従二位 高階成忠(高二位)の娘)

嫡男: 伊周(実績は無いが最高官位は正二位・内大臣。道長の政敵)
次男: 隆家(気骨があり気性が荒い人物)
中宮: 定子(一条天皇の皇后、伊周の妹。従四位下、中宮→皇后宮)
女子:
 脩子内親王
 敦康親王
 媄子内親王
宮廷女房: 清少納言、他にも漢詩や和歌に通じた女房でサロン

藤原北家は代替わりしても傲慢な藤原一族が描かれた。

藤原公任「関白家は皆、自信満々で鼻につく」
993年、一条天皇の行幸に参加せず出仕差し止め処分を受ける。

斉信や行成は定子、清少納言サロンと良好な関係

藤原詮子
円融天皇の女御であり、懐仁親王の母
円融天皇と疎遠だった?「なきに劣りて生ける身の憂き」(死んだ人よりひどい状態で生きる身はつらい)
986年、寛和の変により花山天皇は懐仁親王7歳に譲位、一条天皇となる。
兄の為平親王を式部卿に任じ一品に叙している。

藤原実資の『小右記』で国母専朝事と非難される
一条朝では国母として詮子が幼帝を指導して強い発言権を持ち、院政の意図があったともいわれ、摂政となった兼家と意見が対立することもあった。また、道長と姉弟関係が良く、甥の伊周を嫌った。
詮子は、道長の正妻である源倫子を従三位に昇格させ、彰子を入内させる。道長は彰子のもとに帝を惹きつけるために、当時、話題になっていた
『源氏物語』の作者である紫式部を出仕させ、清少納言のサロンと対抗。

道隆を嫌っていたが、その娘である中宮 定子が難産で崩御した際、詮子は残された第二皇女媄子内親王を養育した。
また失脚した源高明の末娘明子を引き取って道長に娶わせたという。

火事
弘徽殿(こきでん)は、清涼殿の北にあり、皇后・中宮・女御などの住居です。後宮の中では最も格の高い殿舎で、天皇の居所である清涼殿に近い重要な殿舎でした。(放火説は大河ドラマの脚色)
ここで放火説あり、中関白家は何事もなかったかのように振る舞う。

994年、伊周(当時21歳)は権大納言から内大臣に昇格(道隆の後継指名)
この時、道長(当時29歳)は権大納言のままであり、後継外しとみられる
左大臣は源重信、右大臣は藤原道兼でした。

中関白家(なかのかんぱくけ)
『江談抄』や『中右記』、『大鏡裏書』などに登場する語。
藤原北家の中の、平安時代中期の関白藤原道隆を祖とする一族の呼称。
父・兼家と弟・道長の偉大な二人の中間という意味の「中関白」。
藤原北家は実験を握ってからの短命が多い。

身内贔屓が過ぎる異例の人事に公家の反発を買う。
もしかすると、陰陽師らに呪詛されていたのかも知れませんね。

道隆は関白として朝政を主導するが僅か5年ほどで病に倒れ、
嫡男・伊周を後任の関白にと願うが、天皇からは許されず、薨御した。

道隆没後、その遺志に反して弟・道兼が関白となる。
以後、中関白家の急速な衰退が始まった。

汚れ役、夢叶うも短命
道兼は道隆の後を追うように没する。「七日関白」
死後、正一位太政大臣を追贈された。
『栄花物語』では、道兼の容姿は「顔色が悪く毛深く醜かった」
『大鏡』では、道兼は「非常に冷酷で、人々から恐れられていた」
子孫で出世したものはいないようだ。

弟 道長
一条天皇の臣下 道長は依然として関白に就任せず、内覧と一上の資格を有した右大臣(後に左大臣)の地位に留まり続けている。

長徳の変
道長が内覧に任ぜられ、これに反発する伊周と争った末に伊周は没落
以降中関白家が政治の中枢に立つことは無かった。
公式な政府の最高機関である太政官に摂政・関白は関与できなかった。

道長: 従一位、摂政、太政大臣、准三后
妻: 鷹司殿(源雅信娘)、高松殿(源高明娘)、源簾子(源扶義娘)、源重光娘、儼子(藤原為光娘)、藤原穠子
子: 彰子、頼通、頼宗、妍子、顕信、能信、教通 、寛子、威子、尊子、長家、嬉子、長信

「一家立三后」
後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の三帝の外祖父。

有名な望月の歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」を詠んでいる。

関白につかなかった理由?
道長は自らの孫が天皇に即位して外祖父となるまでは摂政・関白には就かず、太政官(最高機関)の事実上の首席である左大臣(一上)として公事の執行にあたると同時に関白に近い権限を持つ内覧を兼任することによって最高権力を行使しようとしたとみられる。

望月の歌とは違うイメージ
道長は病気に苦しんでおり天皇に出家を願い出たが許されず、病をおして
官職を遂行していたようです。

晩年浄土信仰に傾倒
壮大な無量寿院 のち>法成寺(京極御堂とも)の造営に精力を傾けた。

1027年、死に臨んで東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入った。そして、九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引き、釈迦の涅槃と同様、北枕西向きに横たわり、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したといわれている。
1030年、上東門院(藤原彰子)により東北院が建立され、
道長の嫡男 藤原頼通も新堂を建てた。
日本で最大級の寺院となるも1058年に全焼、頼通により再建された。
この時本薬師寺から塔が移されたとする記録が残るが、また焼け落ちた。
伽藍は現存しない。
14世紀前半、兼好法師は『徒然草』の中で、無量寿院およびその9体の丈六仏と法華堂のみが残っていることを記し、世の無常の例えとしている。

まひろとさわが石山寺詣、帰路で河原に多数の死人
993年頃から京の近辺で疫病が蔓延し始め、994年には都の過半数が亡くなり、五位以上の貴族も67人が亡くなったとされる。

天然痘
天然痘はウィルスによって引き起こされる感染症で、医学界では一般に痘瘡と呼ばれています。
強い伝播力と高い死亡率、また、命を取り留めても顔や体に跡が残ることから、古くから恐れられてきました。

1866年12月、外国嫌いの孝明天皇が天然痘で亡くなったことで開国に傾く
明治時代には年間2万人から7万人程度の患者が発生する規模の流行が6回発生しています。

1796年イギリスの医師ジェンナーが開発した牛痘法が世界に広まり、
1980年5月WHOは天然痘の世界根絶宣言をしました。
天然痘予防のため、人痘種痘法を、我が国で初めて成功させたのは、秋月藩医緒方春朔でした。

天然痘・サル痘・水ぼうそう・帯状疱疹は水疱ができる

平安時代には、痘瘡・コレラ(コロリ)などのどれが大流行していたのかは分からない。

まひろが文字を教えていた「たね」と両親が亡くなる
まひろは悲田院で救護活動する

悲田院(非田処)仏教の慈悲思想
貧窮者、病者、孤児などを救済するために設けた施設。
聖徳太子が大阪の四天王寺に悲田院・敬田院・施薬院・療病院を建てた
723年、皇太子妃時代の光明皇后が興福寺に施薬院と悲田院を設置したとの記録がある。悲田院は京と大阪の2箇所に有ったのかも知れない。

大河ドラマのストーリー
道隆は疫病より放火対策を優先させる(庶民を差別しているから)
道兼が改心して疫病対策の為、悲田院に向かう
道長も悲田院に行き、まひろと出会うが倒れてしまう
道長は、まひろを家に連れて帰り徹夜で看病する。

1015年、北宋朝から孔雀が朝廷に届き、これを時の三条天皇が道長に下賜し、道長は土御門殿(つちみかどどの)で飼っていたという。

1016年、土御門殿が焼失
諸国の受領たちによって届けられた屋敷再建の品物によって、以前より立派な屋敷が再建された。以後、東三条殿と並ぶ御堂流摂関家当主の拠点として機能した。

道長の姉である詮子は、991年に院号宣下を受けて東三条院となった後、主に土御門殿をその御所とした。
また道長の長女・一条天皇中宮 彰子が里邸として、ここで敦成親王(後の後一条天皇)と敦良親王(後の後朱雀天皇)を出産、その様子は『紫式部日記』に詳しく、後に『紫式部日記絵巻』に絵画化されている。
彰子の妹嬉子もここで後冷泉天皇を出産、後一条、後朱雀、後冷泉ら三代の天皇の里内裏ともなり、道長家の栄華を象徴する邸宅であった。

1026年、彰子が女院となる際には、邸宅の名にちなんで院号を上東門院とした。

権力者が平安貴族から武将にかわった鎌倉時代には廃れた。
秀吉、家康の時代には仏教寺院の再興や建立が大々的に行われた。

隠れキリシタンは小説や時代劇で被害者のように描かれているが
それは半分は事実で、半分はキリスト教側の視点にたった創作でもある。
キリシタンは実際には庇護されていたり、逆に仏教弾圧もしている。
幕末には廃仏毀釈でキリシタンに破壊され廃れた寺院も多いという。
第11代藩主島津斉彬が廃仏毀釈を始めた人物である。
鹿児島から寺院・仏像・経典が一掃されてしまったという。
フランシスコ・ザビエルは福昌寺の前で、キリスト教の布教を展開し、住職の忍室も黙認したという。
鹿児島で最大規模の福昌寺(僧侶が1500人いたこともあるほど)でさえ廃寺にされてしまった。キリスト教徒の悪事ここに極まれリ。
キリスト教徒は了見が狭いから、日本全土には広がらないのでしょう。

信者が強くて1876年まで仏教弾圧を生き残った仏教寺院は存続した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?