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黒田氏

巴藤の家紋
小寺氏は、播磨の守護大名・赤松氏一門宇野氏の庶流であり、
もとは姫路城のち御着城を本拠とした。
黒田官兵衛(黒田孝高)の最初の主君でも有った。

官兵衛は織田信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉=太閤秀吉)の右腕
名軍師となり秀吉の天下取りをサポートした。

小寺氏の家紋は「藤橘巴」
黒田氏の家紋は「黒田藤」
非常によく似ているが、藤原氏の家紋も参考にしている説もある。

黒田官兵衛孝高(如水)の嫡子である長政が日光東照宮に寄進した石の鳥居には、「黒田筑前守藤原長政」と名前が掘り込まれていることから、長政が本姓を藤原氏としていたことが分かっている。
藤原氏の使用する「下がり藤の紋」を取り入れた紋ともいわれる。

黒田孝高は、姫路城に生まれたと伝わり、勉強熱心で幼少の頃より漢書を読み漁ったとも伝わっており、その知識が少数で大軍を打ち負かす軍師としての才覚に繋がったと言われる。

漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。

1世紀頃、日本列島には王が無数に居たという

文献上は江戸時代天明年間(天明4年2月23日(1784年4月12日)とする説がある)
筑前国那珂郡志賀島村叶崎(かなのさき)または叶ノ浜とされている。
水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。
発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛は2人を雇用しており那珂郡奉行に提出した人物という説もある。

発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は『後漢書』に記述のある金印とはこれのことであると同定し『金印弁』という鑑定書を著している。

発見の経緯を記した「百姓甚兵衛口上書」は複製しかなく、本物は行方不明であり、所蔵する福岡市博物館によれば、いつなくなったのかも不明であるという。

国宝に指定された金印
1931年(昭和6年)12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、
1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。

この金印は出土状態(土層、関連遺物の有無など)が不明であるため、それが実際に1世紀に制作されて1世紀に志賀の島に持ってこられて1600年間志賀の島の地中から動かなかったかどうかの検証ができないものであり、あくまでも『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」「倭國」「光武賜以印綬」の記述にある印綬であると認識することが文化財としての価値を決定しているものである。

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
『後漢書』の「印綬」がこれであるという認識のみ。

福岡藩主(維新後前者は華族の侯爵家)黒田家に伝えられたものとして
明治維新後に黒田家が東京へ移った際に東京国立博物館に寄託された。

金印魏増設
1836年に、国学者の松浦道輔が偽造説を唱えた。
ほか、三浦佑之は著書『金印偽造事件―「漢委奴國王」のまぼろし』において、亀井南冥らによる偽造説を唱えた。

金印が偽造とする根拠
・発見地点の付近では、奴国に関する遺構が一切見つかっていない
・発見時の記録にあいまいな点が多いこと
・江戸時代の技術なら十分贋作が作れること
・滇王之印に比べると稚拙

福岡以外では偽物だと信じる人が多くなってきているようです。

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