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橘氏

橘 諸兄(たちばな の もろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。
初名は葛城王(葛木王)で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。
初代橘氏長者

父は敏達天皇の後裔である美努王
母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。
妻は藤原多比能(藤原不比等の娘)
子:奈良麻呂、照夜の前

藤原氏とは親戚関係でありながらもライバルでも有った。

和銅3年(710年)無位から従五位下に直叙され、翌和銅4年(711年)馬寮監に任ぜられる。


元正天皇

元正朝(715年~724年)では、霊亀3年(717年)従五位上、養老5年(721年)正五位下、養老7年(723年)正五位上と順調に昇進する。

神亀元年(724年)聖武天皇の即位後間もなく従四位下に叙せられる。

神亀6年(729年)長屋王の変後に行われた3月の叙位にて正四位下に叙せられると、同年9月に左大弁に任ぜられ、天平3年(731年)諸官人の推挙により藤原宇合・麻呂兄弟や多治比県守らとともに参議に任ぜられ公卿に列す。

天平4年(732年)従三位に叙せられる。

天平8年(736年)弟の佐為王と共に母・橘三千代の氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は「橘諸兄」と名乗る。

天平9年(737年)4月から8月にかけて、天然痘の流行
太政官の首班にあった右大臣・藤原武智麻呂ら政権を握っていた「藤原四兄弟」をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去してしまった。
この年の天然痘の大流行で日本人口の25-35%あるいは30-50%が失われたとされる。

9月には出仕できる主たる公卿は、参議の鈴鹿王と橘諸兄のみとなった。

挙国一致の政治体制
急遽、朝廷では鈴鹿王を知太政官事に、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命して応急的な体制を整えた。

翌天平10年(738年)には諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、一上として一躍太政官の中心的存在となる。
これ以降、国政は橘諸兄が担当し、聖武天皇を補佐することになった。
側近には遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄昉を抜擢した。

天平11年(739年)正月に諸兄は従二位に昇叙されるが、母の県犬養三千代の同族である県犬養石次を近々の参議登用含みで従四位下に昇叙させる。
同年4月にはこの石次に加えて、自派の官人である大野東人・巨勢奈弖麻呂・大伴牛養を参議に任じて、実態として橘諸兄政権を成立させた。

藤原広嗣の乱
天平12年(740年)8月に大宰少弐・藤原広嗣が、「時政の得失」と「天地の災異」を指摘して政権を批判した上で僧正・玄昉と右衛士督・下道真備を追放するよう上表を行う。
朝廷はこれを反乱と断定した
9月、大宰少弐であった広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こす
ただちに大野東人を大将軍とする征討軍を編成し派遣する。
10月の初めに北九州の板櫃川で対峙し、都から派遣された勅使と広嗣が問答を行い、返答に窮した広嗣自身が退却したため反乱軍は戦わずして鎮圧された。

聖武天皇

干魃・飢餓・地震・疫病の流行による社会不安と藤原広嗣の乱に象徴される政界の混乱を一気に収束させる目的で、10月末に聖武天皇は官使や騎兵400騎をともなって伊勢国に行幸する。
平城京の留守官には知太政官事鈴鹿王と兵部卿藤原豊成が任命された。
11月2日には伊勢に入り伊勢神宮に勅使を派遣した。
この行幸は藤原広嗣の乱以前より計画されていた。

乱平定後も聖武天皇は平城京に戻らず、12月になると橘諸兄が自らの本拠地(山城国綴喜郡井手)にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われた。

天平15年(743年)従一位・左大臣に叙任された。
天平15年には農民人口の減少で荒廃した土地の再開発を促べく墾田永年私財法を発布した。

天平17年(745年)頃より諸兄の子息・奈良麻呂が長屋王の遺児である黄文王を擁立して謀反の企図を始める。

彷徨五年(ほうこうごねん)
天平12年(740年)から天平17年(745年)5月にかけて、聖武天皇が当時の都であった平城京を突然捨て、新規に建設した恭仁宮と紫香楽宮、副都として整備されていた難波宮の3か所を転々としながら政治を行った時代。
天平12年10月29日に天皇が伊勢方面へ旅立った東国行幸に始まり、天平17年5月11日に天皇が平城京に戻るまでを指す。

天平感宝元年(749年、四文字の年号は初)4月には正一位に陞階。
生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。また残りの5人のうち、2人は天皇の生母・外祖母であり、最後に生前叙位された三条実美は没する寸前であったため、純粋に官職を昇りつめて正一位の状態で政務にあたったのは藤原仲麻呂・藤原永手と橘諸兄のみ。

同年8月に孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂の発言力が増すようになる。

天平勝宝7歳(755年、勅命により「年」が「歳」に改められた。)に以下開催された諸兄による橘奈良麻呂の乱の関係者の邸宅での宴が決起の勧誘・意思の疎通・謀反の具体的計画策定の場であったとし、それを裏付ける証拠として、後年、橘奈良麻呂の乱終結後に乱の未然防止を目的として官司に届け出のない官人の宴集が禁止された。

5月11日:多治比国人邸、5月18日:橘奈良麻呂邸、11月28日:橘奈良麻呂邸
同年11月の聖武上皇が病気で伏していた際に、酒の席で上皇について不敬の発言があり謀反の気配がある旨、側近の佐味宮守から讒言を受けてしまう。

これは、橘奈良麻呂邸での酒宴での発言を指すと想定されるが、上皇没後の皇嗣問題について語り合ったと考えられ、前述の謀反に関して話が及び讒言に繋がった可能性もある。この讒言については聖武上皇が取り合わなかったが、橘諸兄はこのことを知り翌天平勝宝8歳(756年)2月に辞職を申し出て致仕した。

天平勝宝9歳(757年)1月6日薨去。享年74。

最終官位は前左大臣正一位。
諸兄の没後間もない同年7月に、子息の奈良麻呂は橘奈良麻呂の乱を起こし獄死した。


円提寺(圓提寺/井堤寺/井手寺)

「円提寺(えんたいじ/えんていじ、圓提寺/井堤寺/井手寺)」の跡地
一説には奈良時代に橘諸兄による氏寺としての建立と推測される。

古くから寺院遺構として知られ、1922年(大正12年)に梅原末治による調査が実施されたほか、2001年度(平成13年度)以降に数次の発掘調査が実施されている。
緑色の塗りと彫刻が施された瓦が出現、これは他に類を見ない瓦である。

彫刻と緑色の塗りが特徴の瓦

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