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海軍国への道

一向一揆の記事で、水軍ネタを描きましたが、日本は明治維新後も軍艦建造では苦労したようです。

日本初の洋式軍艦「昇平丸」は、1854年に薩摩藩主島津斉彬が琉球警備のために建造しました。

1902年3月1日に就役した戦艦「三笠」は、日本国内で建造された軍艦です。
1900年1月26日に就役した戦艦「敷島」も、太平洋戦争の終戦を迎えるまで無傷で現役を務めました。

大日本帝国海軍は大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時と戦中建造を合わせて、戦艦12隻、航空母艦25隻など総計600隻を超える艦艇を保有していました。
潜水艦は、伊号は1,000トン以上の1等潜水艦で119隻、呂号は500トンから1,000トンまでの2等潜水艦で85隻、波号は500トン以下の小型の潜水艦で37隻でした。

迅鯨(じんげい)は、日本海軍の特別な軍艦。
迅ジンは訓読みで「すみやか」と読み、鯨ゲイは「くじら」と読むが特に雄のくじらを指し、迅鯨は海の王者くじらが疾走するさまを表現したもの。
「疾也」「狼子絶有レ力者曰レ迅」、「雄曰レ鯨、雌曰レ鯢、大者長千里眼如(二)名-月珠(一)」

明治5年4月(1872年5月頃)よりフランス人造船技師らによって設計に着手
横須賀造船所で、、 1873年(明治6年) 9月26日起工
1876年9月4日進水、1881年8月5日竣工した。

ゴミのような 皇艦 建造に8年
外海用御召艦として設計され室内設備が豪華であり、建造費も高額であった。
建造費 563,976.168円
御座などで14,490円

しかし、完成した 皇艦 は失敗作でした。
フランス人技師レオンス・ヴェルニーの設計
1875年(明治8年)6月から翌年4月までは担当フランス人が帰省したため工事が中断した。フランス人は無責任ですね。

ヴェルニーらは1866年4月に来日し、月給は833メキシコドルで、年俸にして10,000メキシコドルで雇用された。それ以外に高価な物品や洋館などを支給されている。

ヴェルニーは、海軍造船所の建設や大型艦船の建造・修船のほか、日本人技師の育成にも力を注ぎました。技術者養成科と職工養成科からなる高等技術教育学校を設立し、パリのエコール・ポリテクニークの教育の実践を模範としました。
スチームハンマーを導入した。

レオンス・ヴェルニーは日本(横須賀)では近代化と日仏友好の象徴とされているが、フランス海軍内では評価が低く、帰国後就職難だったようだ。

大失敗艦「迅鯨」試運転成績
1877年(明治10年)12月から試運転が開始されたが、 試運転の際はいつも軸が焼損しており、 軸の過熱を抑えるために回転数は14から15rpm、速力は7から7.5ノット程度しか出せなかった。
また機械類の振動が激しく、 艦の動揺が激しい、石炭を260英トン搭載した場合に吃水が計画より500mm以上超過し、外輪が水中に沈むことが多いなどの問題があった。

1880年(明治13年)1月に函館回航を命じられたため、石炭200英トンを搭載したところ、右舷前部フレームに破損を生じた。

造船技師をフランス人からイギリス人に変更し、改造工事に着手
当時、イギリスから招いていた造船家フランシス・エルガーや扶桑に同乗して来日していた機関士A・ウィグソル(ウキッゼル)に助言を求めた。

1881年(明治14年)2月4日にエルガー立ち会いの元に試運転を行い、前部吃水13 ft 10 in (4.22 m)、同後部14 ft 5 in (4.39 m)で回転数19から20rpm、速力11ノットを測定した。
また、帰航のさいは前部吃水13.5ft(4.115m)、後部:14.5ft(4.420m)で回転数23rpm、速力12.5ノットを出したという。

1882年になっても修理と試運転の繰り返しで、皇艦として完成することはなかった。
12月7日、迅鯨は御召艦の呼称はそのままに予備艦に指定された大失敗艦でした。

1894年(明治27年) 海軍水雷術練習所付属となる。
1896年(明治29年) 4月1日に雑役船に編入された。
1909年(明治42年) 1月25日に廃船となる。

フランス人技師レオンス・ヴェルニーの設計の迅鯨は、
外海用御召艦(快走御召船)としては完全なる失敗作でした。
その後、日本海軍は英国海軍の影響を強く受けるようになる。

迅鯨の名はその後の御召艦に使われることはなく、潜水母艦(迅鯨II)、潜水艦「じんげい」に受け継がれました。
迅鯨(II)は1940年に第四艦隊麾下の第七潜水戦隊旗艦となった。
アメリカ第38任務部隊による十・十空襲沖縄で着底、戦後にサルベージされ菊花御紋章は厚生省復員局に還納の上、靖国神社へ奉納された。

じんげいは、海上自衛隊のたいげい型潜水艦の3番艦として2022年10月12日に進水
2024年3月8日に就役した。第2潜水隊群第4潜水隊に編入された最新鋭艦です。

1873年(明治6年)には、まともに動かない御召艦しか建造できなかった日本の造船技術でしたが、今は世界も羨む高性能な潜水艦を次々建造する造船大国となりました。

ヴェルニー造船技師以外の役立ったフランス人技師
明治政府は、フランスから鉱山技師のジャン・フランソワ・コワニェを雇い入れています。コワニェは1867年に来日し、生野鉱山の開発調査に従事しました。約10年間、雇ったフランス人23名とともに生野銀山開発に携わり、日本の殖産興業政策や近代化を後押ししました。

富岡製糸場の設立に携わったポール・ブリュナ(1840年6月30日 - 1908年5月7日)もいます。ブリュナは生糸技術者で、計画、建設、操業などすべてのことに携わりました。

フランス人技師の多くは陸軍で活躍したようです。

明治政府は、「殖産興業」と「富国強兵」推進のためにお雇い外国人を大量雇用した。
近代化政策の決定の主導権を固く保持し、お雇い外国人に譲りませんでした。また、国籍について意識的な選択を行ったため、各部門相互の間でそれぞれの技術的・文化的母国が異なり、近代化過程でひずみを生み出すに至りました。

1887年(明治20年)以降は、お雇い外国人が減少傾向
1900年までのお雇い外国人の国籍は、イギリスが4,353人、フランスが1,578人、ドイツが1,223人、アメリカが1,213人とされています。

お雇い外国人は、一般の公務員の約20倍ほどの俸給を受けていました。
イギリス人の駐日公使、枢密院顧問官だったアーネスト・サトウは月俸300円(年俸3600円)、大森貝塚を発見した帝国大学教師のエドワード・モースは月俸350円(年俸4200円)、外務省顧問のドイツ人ヘルマン・ロエスレルは月俸600円(年俸7200円)でした。

推定では約3,000人ものお雇い外国人がいた。

日本の産業革命が起きた1870~1885年頃の「工部省時代」に多く雇われました。
明治34年(1901年)の企業物価指数は0.469、2019年(令和元年)は698.8です。
企業物価指数で試算した場合、明治40年の1万円は平成10年の1,088万円になります。
明治34年の1円の価値は約1800円程度になるでしょうか。

工部省は、大隈重信や伊藤博文ら「開明派」官僚が中心となり、1870年12月12日に設置されました。

後に、政府雇用が一段落し、民間雇用へと移行する。

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