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傾奇者大名と大名行列

■江戸時代の階級制度
1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で、勝利を収めた東軍総大将「徳川家康」が江戸幕府を開いた。
「旗本」(はたもと)以上の者が侍と呼ばれるようになりました。

「大名」は知行高(領地で穫れる米の量)が1万石以上の徳川将軍直属の家臣で、大名は徳川氏との縁故によって親藩・譜代・外様に大別され、譜代・外様の大名は城地の有無、領地の大小により国持・国持並・城持・城持並・無城の五階級に分かれています。

■参勤交代
江戸城に匹敵する「姫路城」を持つ播磨国姫路藩の参勤交代の規模
1741年(寛保元年)9月20日の記録
姫路藩第三代藩主 榊原政岑(さかきはらまさみね)は江戸中期の20万石 大殿様
参勤交代の全長は約1km、450人余りの大名行列をなした。

姫路城は、江戸時代初期に池田輝政が秀吉時代の城の上に築城したと言われています。
池田輝政は、築城後城下町を整備しました。
現存する5層の天守閣は姫路城、松本城、松江城の3つで、姫路城は地下も入れて5層6階

姫路の沿岸地方は大きな祭りが多く、灘のけんか祭りは特に有名です。
大酒をのんで2.5トンもある大屋台を担ぐ。

祭りの習慣からか、姫路藩の大名行列でも、殿様の籠を担ぐ陸尺は5合もの酒を飲んで担いでいたと伝わる。

大名行列は1日あたり32kmの移動距離だったという。
ちなみに道程は約640kmもありました。東海道新幹線の全長より長いですね。

越すに越されぬ大井川
防衛の見地から橋がかけられていない大きい川では人足が渡しをしたが、増水すると川止めになり、1ヶ月近く宿場に足止めされることも有った。

日本全体の交流や発展の妨げとなったのも橋がない川でした。
江戸城防衛のため、大軍が簡単に攻め込めなくしていました。
お伊勢参りも大変だったでしょう。特に女性は

■とんでもない姫路の殿様
姫路藩時代の政岑は将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視(反抗)した行動を行った大うつけ者だった。
江戸城大手門の警備を担当した際に、派手で奇抜な服装で現れた傾奇者であった。
吉原で派手に遊興にふけった。
寛保元年(1741年)春には新吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫を1千8百両(2千5百両とも)で身請けする。その高尾の為に開いた酒宴には3千両も浪費した。
姫路藩は、瀬戸内海の塩田発祥地(大塩・的形)であり、赤穂も合わせて塩で潤った。そして姫路皮や高砂染、明石の海産物なども売れたので儲かっていた藩であった。
幕府へ献上する高砂染の反物は30反(総全長で示すと300m)もありました。

将軍様に怒られた
倹約将軍吉宗は政岑に対し、寛保元年(1741年)10月に出府を命じ、老中松平乗邑により政岑の乱行の調査が行われた。吉宗自身は改易の考えさえあったようであるが、重臣の尾崎富右衛門による幕閣への懸命な弁明により改易・絶家は免れたが、越後高田(新潟県上越市)に懲罰的な転封を命じられた。越前高田は先代が借金まみれにしており、倹約し財政建て直しをせざるをえなかった。

■旗本
「旗本」は知行高が200石以上~1万石未満であり、徳川将軍と謁見する「御目見(おめみえ)」が許された者です。

1,200石以上を大身旗本(たいしんはたもと)と言いました。
1石は大人一人が一年間に食べるお米の量に相当します。

旗本は、戦場で主将の旗下にあって主将を護衛する武士団を指す言葉が語源です。
旗本の主な仕事は役方や番方で、旗本屋敷で暮らしていました。
旗本は、江戸幕府に直属する常備軍の中核となり、武家諸法度によって統制されていました。旗本最高の役職は、老中支配下の留守居役で、江戸城大奥の御広敷向に詰め警備を担い、将軍不在の場合は留守警備の重責を担っていました。

旗本は約5戦家、8万人の兵力だったと言われます。

■幕末知行高ランキング
1位:加賀藩前田家(約103万石)
2位:薩摩藩島津家(約73万石)
3位:仙台藩伊達家(約62万石)
4位:尾張藩徳川家(約62万石)
5位:紀伊藩徳川家(約54万石)
6位:熊本藩細川家(約54万石)
7位:福岡藩黒田家(約43万石)
8位:広島藩浅野家(約43万石)
9位:長州藩毛利家(約37万石)
10位:佐賀藩鍋島家(約37万石)
数字がそのまま裕福かという塗装でもなかったようです。
また、少ない知行高であっても潤っていた藩もあります。

■3万石なのに米がとれない蝦夷地
松前藩は、江戸時代に蝦夷地(北海道)を支配した外様大名です。
江戸時代初期は、現在の北海道南西部、渡島半島の和人地のみが領地でしたが、蝦夷地を支配して藩領化していきました。
松前藩は、アイヌとの交易を独占する権利を認められていました。そのため、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として交通を制限し、アイヌと和人が勝手に貿易することを禁じました。
松前藩の財政基盤は、蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在でした。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられました。
江戸時代には米が取れなかった松前藩の特産品には、塩干魚、こんぶ、干しあわび、いりなまこ、魚肥などの海産物や材木、毛皮などがありました。なかでも干しあわび、いりなまこ、ふかのひれの3品は俵物(たわらもの)と呼ばれ、中国貿易の重要輸出品でした。
今は美味しい北海道米がありますね。

■武士と侍
武士は侍と「郎従・郎党」(ろうじゅう/ろうとう)とに分けられました。
侍には御家人と非御家人があり、御家人は幕府に仕え、領地を所有する者を指します。
非御家人は幕府との主従関係のない、独立した侍のことです。

■御家人
直参でも将軍に御目見できない者を「御家人」といいました。
旗本や御家人の石高は平均して約100石で、これは約1000万円に相当します。(江戸中期移行は大幅に下がりました)
武士の平均年収は20石に足りない程度だったと考えられています。
人数にして20人を雇えるかどうかというくらいの収入で、余った米は換金し着物や副菜などを購入しました。

■名刀
武士の魂と言われる刀は家宝?
豊臣を滅亡させてからは名刀が美術品の様な価値になり、手入れして持つもので、一生に1度ひとを斬るか抜かずに終わるかという代物になっていたようです。
使えるが滅多に使わないという意味では現代の警官の持つ拳銃の様な感じですね。美術品としての価値はありませんが

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