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不条理な信仰

イサクの燔祭(はんさい)
旧約聖書の『創世記』22章1節から19節にかけて記述

神によってアブラハムの信仰心を試すため・・・人身御供

アブラハムは不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけた愛すべき一人息子イサクを生贄に捧げるよう、彼が信じる神によって命じられる

アブラハムは朝早く起きて、ろばに鞍を置き、二人の従者と息子イサクを連れ、焼き尽くすいけにえに用いる薪を割り、神が示した場所へと出かけて行った。

祭壇にくべる薪を彼(イサク)に背負わせる

(イサクはすでに、自分が燔祭の子羊として捧げられることを認識していたと思われる。)

しかし、彼は無抵抗のまま父に縛られ、祭壇の上に載せられるのであった
— 『創世記』 

美化した絵

神の命令は「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」という21章12節の約束と明らかに矛盾していた。にもかかわらず、アブラハムはほとんど盲目的に神の言葉に従ったのである。

息子を殺害寸前、天より舞い降りて止めた天使を「良心」と解釈する意見がある。
しかし、矛盾が生じる
神の命令で息子を生贄として殺す決意を決めたのに、天使にそそのかされて神の命令に背いたのか?という矛盾点。
天使は神の子ではないのか。
父親に息子の殺害を命じた「神」の子が止めた、天使は神の命に背いたのか?

息子を生贄として神に捧げたアブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒、キリスト教徒、並びにイスラム教徒によって讃えられている。

イサクの燔祭に関するこれらの解釈(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)
ユダヤ教では神ではなくサタンの仕業と言い換えるものがいる。

キリスト教の伝統の中で教義化したのだが、それによりキリスト教徒は、イサクが捧げられたとされる神殿の丘から、イエスが捧げられたとするゴルゴタの丘へ聖地を移した。
一人息子をも惜しまないアブラハムの献身的な心構えが神の心を打ったことにより子孫の繁栄と全地の祝福が約束されたという思想が形成されたといわれている。

イスラム教『クルアーン』においてもイブラーヒーム(アブラハム)が息子を屠るという主題が見出せるのだが、イスハーク(イサク)、イスマーイール(イシュマエル)のいずれを神に捧げようとしたのかは明確に記されていない。
毎年盛大に行われる犠牲祭(イード・アル=アドハー)はこの故事を由来としている。

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