日本最後の内戦

明治新政府になってからの最後の内戦は2つ

五稜郭

幕府軍と新選組
箱館戦争は、1868年10月20日から1869年5月17日まで行われました。
戊辰戦争の戦闘の一つで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘です。
旧幕府軍の本拠地が現北海道函館市の五稜郭だったことから「五稜郭の戦い」とも呼ばれます。

箱館戦争

蝦夷共和国(旧幕府軍)
榎本武揚(総裁)
大鳥圭介(陸軍奉行)
荒井郁之助(海軍奉行)
土方歳三 †(陸軍奉行並)
約3,500
軍艦5 美賀保丸、長鯨丸、咸臨丸、開陽、回天
戦死:約1,000
沈没:軍艦1、
座礁:軍艦3、
拿捕:軍艦1

官軍 新政府軍
清水谷公考(青森口総督)
山田顕義(海陸軍参謀)
黒田清隆(陸軍参謀)
増田虎之助(海軍参謀)
約9,500
軍艦6 東艦(甲鉄艦)・甲鉄・春日・陽春・丁卯と豊安丸・戊辰丸・晨風丸・飛龍丸の運送船4隻。
戦死:約300
沈没:軍艦1

東艦

箱館戦争は、榎本武揚ら旧幕臣が臨時政府「蝦夷共和国」をつくって官軍に抵抗した戦いです。
榎本らの降伏によって終結し、鳥羽伏見の戦いから続いた幕府側の抵抗はすべて終わりました。
箱館戦争で旧幕府軍である土方歳三と新選組らが敗れ、戊辰戦争が終わることで、江戸幕府(徳川将軍家)による、約260年の江戸時代が終わります。

臨時政府「蝦夷共和国」敗戦

弔い
函館山の麓にある箱館戦争旧幕府軍の慰霊碑「碧血碑」
戊辰戦争、特に箱館戦争における旧幕府軍の戦死者を記念する慰霊碑。
土方歳三や中島三郎助などをはじめとする約800人の戦死者を弔っている。

碧血とは
忠義を貫いて死んだ者の流した血は、三年経てば地中で宝石の碧玉と化すという伝説にちなむ。

新政府の非道
箱館・五稜郭の防衛戦で、賊軍とされた旧幕府軍戦死者の遺体は戦闘終結後も
明治新政府の埋葬禁止令によって、斃れた場所に幕軍の遺体は腐敗するまま放置された。

柳川熊吉
哀れに思った箱館の侠客(やくざ者:現代の暴力団のような人間のクズ集団とは違う)柳川熊吉は遺体を回収して埋葬しようとした。
実行寺住職・松尾日隆、大工棟梁・大岡助右衛門と相談し、子分たちに遺体を回収させ、実行寺・称名寺・浄玄寺に仮埋葬した。

子分たちに遺体を回収させたと書いたが、実は明治新政府に禁止されている行為であるため、迷惑がかからないようにと子分たちとは絶縁しており、子分たちは元親分を慕って自発的に手伝いに集まってきた者達だった。

柳川熊吉は安政3年(1856年)に江戸から箱館へ渡り、請負(人材派遣)業を営み、五稜郭築造工事の際には労働者の供給に貢献した人物。
榎本武揚ら幕臣とも交流を持っていた。

賊軍の慰霊を行ってはならないとの明治政府からの命令に反した熊吉は追及を受けたが、
熊吉の堂々とした態度に官吏は埋葬を黙認していたが、ついに捕らえられた。
熊吉は子分たちが手伝っていたことはシラを切り通し一人でやったと言い張った。
そして明治新政府に寄って打ち首が言い渡される。

薩摩藩士・田島圭蔵
新政府軍の薩摩藩士・田島圭蔵は、「これからの日本のために、こういう男を死なせてはならない」と考え、熊吉への打ち首を取り止めさせ、熊吉は無罪釈放となった。

明治4年(1871年)、熊吉は函館山の土地を買い、そこに箱館戦争戦死者を実行寺より改葬した。
明治7年(1874年)8月18日に、明治政府が正式に賊軍の汚名を負った者の祭祀を許可すると、箱館戦争の生き残りである榎本武揚、大鳥圭介らが熊吉と協力して、明治8年5月、この「碧血碑」を建立した。

晩年の熊吉は、碧血碑の傍で余生を過ごしながら、大正2年に89歳で生涯を閉じた。
同年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、碧血碑の側に碑を建てている。

現代においては、箱館五稜郭祭などに際して碑前で慰霊祭が行われている。

旧幕府軍と松前藩が1868年11月12日に交戦した厚沢部町稲倉石古戦場跡にも、
同名の碑が1919年に旧松前藩士により建立されている。ダム建設工事に際して移転された。

山県有朋
明治政府では「廃刀令」や「帯刀禁止令」布告
廃刀令とは、1876年(明治9年)3月28日に太政官布告第38号として公布された法令です。
この法令は、大礼服を着用している者や軍人・警察官が制服を着用している場合を除き、刀剣の携帯を一切禁止する旨を定めています。

新政府の外交官「森有礼(もりありのり)」が1869年(明治2年)に「公議所」で「廃刀案」を提議した(公議員全員一致で否決)ことから始まり
陸軍卿の山県有朋(やまがたありとも)の建議によって出されました。

廃刀令は、明治政府が従来の身分制度を撤廃しようとした「四民平等」政策の一環として出されました。
廃刀令は、武士の特権であった帯刀を禁止するもので、士族のプライドを傷つけ不満を増大させた。

西郷隆盛
日本最後の内戦は、1877年(明治10年)2月15日から9月24日まで8ヶ月続いた「西南戦争」です。

明治維新の立役者のひとりである西郷隆盛を総大将に、鹿児島士族「薩摩軍」と新政府「日本軍」7万が鹿児島(薩摩)を中心に九州全域で争いました。
維新の新政府側英雄 西郷隆盛が靖国神社に祀られていない理由である。

この最後の内戦終結後、武士という階級が消滅していく。

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