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菅原道真の左遷

印南野は 行き過ぎぬらし 天伝ふ 日笠の浦に 波立てり見ゆ

畿内(京を中心とした特別なエリア)に隣接する場所にある播磨国
西播磨と東播磨を分かつ位置に日笠山があります。
菅原道真公がおられた時代は、まだ海面が高く現在よりも内陸に瀬戸内海の浦(小規模な港)や干潟がたくさんあったようです。

姫路市大塩町の日笠山登山道の登り口に日笠天満宮「岩神社」があります
岩神社には「菅神腰掛石」があり、この神社の御神体とされている。社は非常に小さい。

日笠天満宮、岩神社と呼ばれ、菅原道真がここで腰を掛けたという岩が御神体であり、江戸時代の『播磨鑑』や「大塩村寺社明細帳」等に菅神腰掛石とか天神腰掛岩と記されている。
<中略>
ここは文化元年(1804)版『播磨名所巡覧図会』に「絶景」と記す「檜笠山(日笠山)」の大塩側の登り口であり、山麓の大鹽(姫路市大塩町)から曽根(高砂市曽根町)のほとりの「檜笠浦(日笠浦)」と「大鹽(大塩)」を名所とする。

日笠山の高砂側山腹は無駄に住宅地に開発されて舗装道路まであり景色が悪い。
逆に、大塩側は畑や自然が多く残る良い景色である。

高砂側を無駄にと書いたのは、曽根町は広大で土地はたくさんあり、わざわざ山腹を宅地にする必要もなく、古くからの絶景という歴史も無視しているので、頭の悪い人間がやらかした開発という意味で無駄にと書いた。曽根側から見る日笠山は美しくない。

日笠山の北方の最頂、字北山に巨大な岩がある。
大小2つ並んでいることから「夫婦岩」と云っている。
伝説にその昔、菅原公左遷の折、九州への途次この地に立ち寄られ、この夫婦岩から四方の景色を眺められ「吾に罪なくば栄えよ」といって、手安づから小松を植えられたのが、曽根の松だとのいいつたえがある。

日笠山を挟んで、東に曽根天満宮、西に大塩天満宮と岩神社がある。
現代人の脚でも徒歩でも行ける距離にある。
曽根天満宮にあった霊松「曽根の松」は、伊保港に船を寄せた道真が日笠山に登り、山上の小松を移植したものだという。曽根は松陽としても知られる。

https://www.youtube.com/watch?v=MYVXbHc7d0Q

大塩天満宮氏子8村(現在、兵庫県に村や丁はなく、町)による秋祭り毎年10月14・15日に開催されています。大塩の特徴として太鼓台(地元ではヤッサという)の屋根に天満宮と八幡宮の紋が付いていること。
太鼓を叩く4人と練棒(本棒)の上に立つ世話人の2人または4人全員が大人であること。
他所(大きい祭りでは網干の魚吹八幡神社)では軽量化のため子供が乗ることが多い。


https://www.youtube.com/watch?v=i8fXQ8by7ok

大塩天満宮は毛獅子舞が有名で、ストーリーで繋がっている。舞う時に伊勢音頭が歌われる。
同日に西方向で行われている『灘のけんか祭り』に毛獅子舞を伝えたのも大塩の氏子である。


他所から大塩に行くと、日笠天満宮と間違えるのが、駅南に有る大塩天満宮でしょう
大塩町は日笠山麓とは別に町の中心地に「大塩天満宮」があり、こちらは大規模な天神さん。

菅原道真公は、平安時代の貴族で、現代では「学問の神様」として祀られる
歴史作家の河合敦さんは「実務能力に非常に長けていたが、傲慢な人物だった」と分析する。

皇位についた定省(さだみ)親王=宇多天皇は、太政大臣の藤原基経(もとつね)に「関白としてすべて政治を取り仕切ってほしい(文章は現代訳)」という旨の詔(みことのり)を出した。
基経は形式的にこれを辞退するが、天皇はそれをさらに形式的に退け、再び政務の総括を基経に要請する勅答を差し出した。
ただ、その中に「阿衡の任を以て卿(基経)の任となすべし」と記されていた。

問題発生
橘広相(ひろみ)が書いた勅答の文章解釈が間違っていた

広相は菅家廊下の卒業生で道真の父・是善の教え子だった。
31歳の若さで文章博士に就き、その後は貞明親王(後の陽成天皇)の東宮学士(皇太子の教育係)となった。陽成天皇が即位すると、蔵人頭(天皇の秘書官長)をつとめ、続く光孝天皇の時代には文章博士に再任され、さらに参議にのぼった。続く宇多天皇も広相を「私の博士は、優れた学者」と呼んで重用した。

基経の家司(けいし:家政をになう職員)をつとめていた文章博士の藤原佐世(すけよ)が「阿衡は単なる名誉職で、じっさいには仕事がない」と知らせたのである。
これを聞いた基経は、「俺に仕事をするなということか」と怒り、一切の政務から手を引いてしまったといわれる。

広相は、藤原基経を阿衡と謳われた殷の名宰相・伊尹にたとえたのである。

左大臣の源融(とおる)は、この勅書の可否について紀伝道、明経道、明法道などさまざまな立場の学者たちに勘申(先例などを調べて上申すること)を命じた。
学者たちは広相よりも身分が高い基経を忖度し、佐世の解釈をとった。
広相は反論したが通らず、引きこもることとなる。
宇多天皇は仕方なく基経に政治がとどこおらないよう、出仕してほしいと頼んだのである。

それでも出仕しようとしない基経の策略
広相が娘を宇多天皇に輿こし入れさせ2人の皇子をもうけていたのに対し、外戚でない基経が示威行動を見せたのだともいわれている。

騒動を聞いた道真は讃岐の国司の長官(守)だったが、この人事を道直は捺せンと考えていた。
阿衡の紛議を聞きつけ、それを理由に急ぎ帰京した。
学問的な(紀伝道の)立場から広相をかばい、基経を諫める意見書「奉昭宣公書」を提出した。理路整然としたその主張に、ついに基経も矛を収めざるを得なくなったといわれている。

結果、基経が娘を宇多天皇に輿入れさせることで落着し、広相も処罰されず三方丸く収め
宇多天皇が道真を厚く信頼するようになったと考えられる。
寛平3年(891)、中央に返り咲いた道真(この頃は、中級貴族の身分だった)は、蔵人頭に就任、式部少輔(式部省のナンバー・スリー)に再任され、さらに翌月、左中弁(太政官の事務官僚)を兼ねた。2年後には参議になった。
遣唐大使に任ぜられた道真は、もう日本が唐(古代中国)から学ぶことは何も無いとし「遣唐使を停止すべきだ」とする建白を出し、承諾された。

寛平9年(897)、宇多天皇は13歳の息子・敦仁親王(醍醐天皇)に譲位した。このとき宇多は醍醐に「道真と藤原時平の助言を得て政治をとるように」と訓戒している。このため醍醐天皇は、道真を右大臣にした。

中級から上級貴族へ、そして転落
昌泰4年(901)正月7日には、時平とともに従二位に昇進している。
あまりの栄達ぶりに貴族たちの多くが激しい嫉妬していた。

宇多天皇は摂政・関白をおかず、学者菅原道真を重く用いたが、道直とともに天皇を補職する藤原時平は実権を握りたかった。

藤原道直と藤原時平の両方が公卿の嫌われ者
寛平10年(898)には、道真と時平が政治を取り仕切ってしまっていると疑いを持ち、公卿たちが一斉に仕事をボイコットする事態も起こっている。能無し公卿達は才能ある二人を妬んだのかも知れない。

文章博士の三善清行が道真に手紙を送った。
「あなたとはまだあまり親しくないので、ご無礼を許してほしいが、あなたのために忠告します。もう十分栄達したはずです。これほどの出世は吉備真備以来でしょう。だから身の程をわきまえ、その地位を退いたほうがよろしい」

醍醐天皇の時、時平は策謀を用いて道直を政界から追放した

策謀は、道長が醍醐天皇に譲位させて斎世(ときよ:道真の婿)親王を擁立しようとしたとされる濡れ衣だった。

醍醐天皇は、宣命を発する
「朕が即位した際、父・宇多上皇の詔によって、左大臣・時平らと協力して政治をおこなうように命じられた。なのに低い身分から大臣にのぼった道真は、分をわきまえず権力を独占した。宇多にへつらい欺き、その気持ちを思いやらずに皇位の廃立をたくらみ、父子、兄弟の慈しみや愛を破ろうとした。これは皆が知っていることだ。ゆえに右大臣の地位はふさわしくないので大宰権帥とする」

道真は昇進から18日後、大宰権帥(ごんのそち)に落とされ九州の大宰府に左遷されることが決まったのである。

これは、藤原時平が権力欲に目がくらみ醍醐天皇に讒訴(ざんそ:道直に濡れ衣を着せ追い落とす)したとしている。この後も時平はいくどとなく政敵を讒訴している。

道直『拾遺和歌集』より
「あめのした逃るる人のなければや着てし濡れ衣干るよしもなき」

https://www.youtube.com/watch?v=3cd3jXXBrWI

諸説あり:歴史学者、観てきたような嘘をつき。

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