朝彦と夜彦と

 初めてその朗読劇を知ったのは、私が二年ほど前から追いかけている俳優の高本学くんが出演すると知った時だった。その時の私は朗読劇という文字に両手を挙げて喜んだ。なんなら悲鳴だってあげた。朗読劇に出て欲しいと思っていた矢先の情報だったからだ。

 彼が舞台「黒子のバスケ」で共演した、糸川耀士郎くんのイベントにゲストで出演した六月二十二日、耀士郎くんの書いた台本で朗読劇をやった。その時私は朗読劇というものに初めて触れた。そして朗読劇と彼の声に痺れた。いつも舞台上で歌って踊って動き回るときの声と、少し違うような気がした。そりゃ動きながら踊りながらの声音と椅子に座ってじっと本を読む状態の声音で違うのは当たり前なのだが、その低く掠れた声がゆったりと話し、時々笑い、少し怒る。それが私は堪らなく大好きだった。だからこのイベント内だけで終わらせて欲しくなかったし、朗読劇のお仕事もして欲しい!とradiotalkというアプリでも言った気がする。高本くんがファンの声を聞きたいと言ったradiotalkなら、せめて関係者にはどうにか伝わるだろう、いや伝わってくれと思った。
 そうして、そのイベントが終わって一ヶ月もしない間に、私は「朝彦と夜彦 1987」という朗読劇を知った。きっとこのイベントの前から決まっていたのだろうけれど、私の願いが届いたと思ってとても嬉しかった。

 諸手を挙げて喜んだのも束の間、変則的な勤務の私は有給取得に走ったり、交通手段を確保したり、チケットが取れる取れないで慌しい生活を送った。そこで見かけたのがとある人のブログだった。その人は四年前の「朝彦と夜彦 1987」を観劇した人だった。とても優しい文章の人だった。寂しさの中に暖かさがある素敵な言葉を紡ぐ人だった。私はそのブログを読んだだけで泣いた。なにもネタバレはなかった。ただあらすじと、その人が朗読劇を観て感じたことを綴っていただけだった。それでも私はそのブログを読んでとても素敵なお話なのだと確信したし、期待に胸膨らませた。

 こんな長い前置きを経たが、私は当日新幹線で東京に向かい、ホテルのチェックインを済ませ、必要最低限の荷物を持って、慌しい私よりも忙しない渋谷の雑踏の中スマホの地図アプリを開いたままで右往左往の末に会場へ来ていた。会場のあるビルの一番上に大きく「学」と掲げられているのを見た時、今から舞台の上に立つ人を思い出して嬉しかった。
 ビルの一階ではラジオかなにかの公開収録がされていて、人だかりができていた。それを横目に会場へ入ると、舞台と客席の距離が近いことに驚いた。その時の座席が最前列だったのでそう感じたのかも知れないが、私は今から泣くことがわかりきっていたので、ちょっと困惑した。化粧が崩れるとか顔がどうこうではなく、絶対に視界に入ったら邪魔だろうな、と思った。少し涙ぐむ、とかすすり泣く、くらいなら可愛いのだろうがこっちは四年前に見た人のブログを読んだだけで泣くくらい涙腺が機能していないものだから、いっそ目障りになるくらい泣くと思っていたからだ。
 申し訳ない気持ちになりながら席について、私はあのブログを何度も思い出しては、高校生の夏を思い出した。二十歳までには死にたいと思っていた学生服の自分が、二十五歳になった私を鼻で笑っていた。

 上演後すぐに泣き出した私はその後も涙を止められず、二人の生きた屋上の片隅でただ泣きながら嗚咽を殺した。
 ところで私は着席した時の座席の近さと緊張と興奮で鞄の中に入れていたスポーツタオルを手に取る事を失念していた。気付いた時には上演中、暗転の場面でも有れば良かったがそんな場面もなく両手で嗚咽を殺すのに精一杯だった。一瞬でも目を離すと二人と私の間に現実の溝ができると思って、絶対に目を離したくなかった。加速していく世界の中で、呼吸の仕方もわからずにもがいた。息を大きく吐き出したのは、終盤、夜彦が朝彦に声をかけ、ストーブを消しながら返事をして暗転していくところだった。息を呑んで見ていたのに、急に深呼吸をしたものだから肺の機能が一瞬遅れた。溢れるように咳き込んでしまった私はカーテンコールに現れた二人に拍手も送れず、ようやく手にしたタオルで音を殺した。急いでぐしょぐしょの手を乱雑に拭いて、去っていく二人に目一杯拍手を送った。会場の照明が客席を照らして席を立つ客の中で私は隣席の女性に心配されるほど咳き込んで泣いた。お姉さんごめんなさい、絶対に涙引っ込ませてしまった。なんとか這う這うの体で会場を出た私を、一緒に観ていたフォロワーが笑った。その時はそこまでか?と笑ったが、カラオケのトイレで見た私の顔は確かに酷かった。

 夜、ホテルに戻って何度もあの舞台を思い出しては泣いた。夏の空が鮮烈だった。屋上に落ちる二人の影はどこまでも黒いのに、明るくて、暗かった。こんなにも鮮やかで朧げで無邪気で残酷な世界を今まで知らずに生きてきた衝撃がホテルのベッドに横たわる私を何度も殴っては起こしてきた。目を閉じるとフラッシュバックのように瞼の裏に蘇って感情が揺さぶられる世界だった。
 二日間の観劇を終えて、二十歳までに死にたかった高校生の私が何度も夜彦を羨んだ。朝彦と過ごしたあの瞬間は、確かに夜彦を苦しめ、それと同じくらい夜彦を救ったのだと思った。
 そう思うことで、幼い私も、今の自分も救われる気がした。

 「自分」を形作るのは周りの環境や人間、そして見聞きし触れた全ての物事だとなにかで言っていた。だからあの二人の世界はどうしようもなく真っ直ぐで純粋で、だからこそ不安定で泡沫のような……とにかくこの朝彦と夜彦の世界に出会えた事が嬉しすぎて堪らずに、何度も思い出しては夜彦の慟哭を噛み締めた。
 観てよかった。出逢えて良かった。一生の思い出に刻まれた世界だった。愛おしい物語だった。この世界に出逢わせてくれた高本くんと、再演すると聞いてブログを綴ってくれた人、この物語を朗読劇にしようと言ってくれた人、朗読劇をもう一度やろうと言ってくれた人、この世界を書き綴った人、思い出すたびにすべての人に感謝の気持ちが溢れた。
 ありがとう。こんなに素敵な世界に出逢わせてくれて。ありがとう。本当に何度だってそう思う。私はほんの少し好きになってきたこの世界で、素敵なものに出逢うため、今日もなんとか生きている。

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