何度でもモラトリアムの終焉がくること
また始まって終わったモラトリアムについて、今度ばかりは寂寥感を感じなかった。
新しい何かがこれから始まる、そのために今までが終わってしまうことが悲しいような楽しみなような、不安なような安心するような気持ちだった。ゴールのようなスタートに臆病になって強がる日々も、確かに必要なものだとわかっているからなのかもしれない。
まるであの頃のように飲み歩いては家に帰らないことも許されて、わたしはずっと心の準備をしていたのかなと思うけど、そのおかげでじゅうぶん満足した。
こんなことを言っているけれどこんな風にモラトリアムは今まで何度もわたしを飲み込んだし、きっと最後だと思えちゃうようなこんなあったかい日なんかも、アルコールに浸かった夜も、全部きっとまたあることなんだと思う。
いつも、ここまでくれば安全だと思った岸は気づかないうちに足を掴む底なし沼で、お腹いっぱい美味しいものを食べても次の日にはお腹がすいちゃうからそんなこといちいち悲しんでいられない。もう何もかもわかったような気になる日も、次の日には何もかも分からなくなるようなものがきっと人生で、それってまったく、とてもまともにやっていられない。
そんなの面倒でしょうがないから、なんとかもう二度と苦労しない方法を探すけど、そんなものはどこにもなくて、ただひたすら歩き続けるしかない。怪我をしながら、癒し癒されながら、ご飯を食べてはお腹を空かせ、眠っては起床しながら、無駄にしか思えない人生とかいう無意味な時間は茫漠たるさまであり続けているし、それを無為に過ごすことに全く罪悪感もないが、ただ楽に生きるために毎日を一生懸命やるのが一番だってのもおかしな話だな。
そうしてもうだめだっていうエアポケットみたいな時間、なんもかんもあーって投げ出して、あーあって過ごしては後悔するのが何ヶ月も続くのがわたしにとってのモラトリアムで、たいていそれはなにかが変わるときに設けられている。もう終わりだっていつでも思うけど、きっとまたあるんだろうな。
内容は少しづつ変わるけれど、本質的には繰り返すことばかりが人生だなと思っている春がきています。暖かい日々が脳みそを溶かすのでこうなっています。
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