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せめて芸術を恋ひ慕ふ 深き情を持たしめよ

黒歴史って今でも使う言葉だろうか。使われてないとしたら、きっと同じ意味の言葉がどこかで生まれてるはずだ。

黒歴史っていうのは、思い出すと枕に顔を埋めてジタバタしたくなるような恥ずかしい過去のことで、人類から黒歴史の概念がなくなることなんてないと思う。

中2から高2くらいまで、私はやることなすこと黒歴史だった。Wikipediaで神話の項目を必死に暗記して、来るべきときにサラッと神々の話ができたら最高にかっこいいと思ってた。幸か不幸か(間違いなく幸だけど)、今日まで披露の場はない。

物置からなぜか皮表紙の讃美歌の本が出てきたとき、自分と神々との思わぬつながりに震え、親指に穴を開けた学校指定ジャージ(学区内で一番ダサくて、ビオレハンドソープのキャップみたいな色)の胸に本ををギュッと抱きしめた。多分天も仰いでた。言っておくけど私が一番怖がってる。

うちにキリスト教徒はいないはずだけど、讃美歌を買ったのは誰なんだろう。私と同じタイプの先祖がいたのかもしれない。未来の世代が必ずしも進歩しているとは限らない。

そういえば大学生のとき、美術と宗教みたいな授業で、友達に「こんなに人が描いてあったら誰がミネルヴァなのかわかんなくない?」と聞かれ、「ふくろうの羽を持ってるのがミネルヴァだよ」と答えた。

ミネルヴァはローマ神話の知性の女神で、知性の象徴でもあるふくろうと一緒に描かれる。神話Wikipediaが役立った人生唯一のハイライトだ。

「なんでそんなこと知ってんの?」と聞かれなくて本当によかった。「中2のとき、かっこいいと思って必死に覚えてたんだよね〜笑」と返せたら御の字で、下手したらカインとアベルやらオリュンポス12神やら、マシンガントークをくり広げてたかもしれない。それやってたらnoteに書けてない。

黒歴史は、自分がその歴史を紡いでいる最中には気づけない。いつの間にか熱が冷めて、ふと振り返ったときに思うのだ。「はっずかし!あの場にいた全員の記憶が抹消されますように!」

黒歴史なんて、さっさと目を覚まして切り上げるに限る。できればそもそもそんな歴史の第一歩を踏み出さないに限る。
現に、西洋神話にやたら反応するこけし顔(実家は曹洞宗)にならなくて良かった。

けど、いまもし無意識に黒歴史を紡いでいるのだとしたら、このまま一生覚めたくないなとも思う。

覚めた時のダメージが10代の比じゃないってのもあるけど、それよりも、思い出したときに恥ずかしくなるレベルで何かにかぶれる体力は、貴重だってわかってきたからだ。

高校生のとき、島崎藤村の『藤村詩集』を読んだ。全ての言葉が、琴線どころかギターの弦にジャンジャン触れて、あまりの刺激の強さに、手で次の文を隠しながら一文一文読み進めた。

いつも本を読んでいた、4両編成のローカル線。お年寄りが1~2人と、カップラーメンを啜りながら乗車してくる他校のヤンキー。スクールバッグの上に深緑色の文庫本を広げ、日本語ってこんなに美しいのかと、愕然とした。

「島崎藤村がすごい」「日本語って美しい」「もはやひらがなの形すら美しい。藤村に気付かされた。私が一番芸術点高いと思うのは“は”」と新橋で号外を配る新聞記者のように触れ回った。

思い出すと、「恥ずかしい。やらなきゃよかった」と「今更後悔したってどうせあのエネルギーは止められなかった。やってよかった」、少し迷った末、後者に天秤が傾く。

この文を書きながら、久しぶりに『藤村詩集』を開いてみた。お気に入りの詩のところに、可愛いバレリーナの付箋が貼ってあった。高校の友達が誕生日にくれたものだ。(当時、島崎藤村の布教をニコニコ聞いてくれる友達がたくさんいた。懐の深さに恐れ入る。本当にみんな同い年だったんだろうか)

一番お気に入りの『暁の誕生』という詩の一部を引用する。

やがて好みて琴弾ことひかば
指を葡萄ぶだうつるとなし
耳をそよげるあしとなし
たなれの糸に触れしめよ

やがて好みて筆持たば
心をあやをさとなし
胸を流るゝ|雅となし
色あたらしく織らしめよ

よし琴弾かず歌よまず
画をかくわざにすぐれすも
せめて芸術たくみを恋ひ慕ふ
深きこころを持たしめよ

島崎藤村 1968『藤村詩集』 夏草 暁の誕生より 新潮社

何度読んでも、心臓の少し下あたりがぎゅうっとなる。言葉の美しさと、言わんとしていることの正しさが音叉のように響き合っている。

やっぱり今でも、この文語体への夢中が続いている。叫ぶ場所が教室からnoteに変わっただけだ。

文学の、言葉の美しさを叫んでいたい。いつも上手く言えないし、聞いてもいない人に話しちゃうし、「これを発信する自分がどうみられるか」という自意識から逃れられない。
もどかしさやむず痒さを抱えたままやったことは、のちに黒歴史になる可能性が高い。きっと私が文学に冷めてしまったら、高校生のときの暴走も、このnoteも黒歴史になる。だから“夢中“から覚めたくないのだ。

神話のWikipediaを暗記したことも、私が神話のかっこよさを信じ続けていたら、黒歴史じゃなくなってた。自分可愛さに冷静になっちゃったから、中途半端な燃カスが恥ずかしい。

大学の講演で、現代評論家の宇野常寛氏が「自分の外側に自分より大事なものを持て」と話してくれた。
「自分がどう思われても良い!好きなものの良さを発信したい!」という気持ちでいろ、ということらしい。

藤村の『暁の誕生』の「せめて芸術を恋い慕ふ 深き情を持たしめよ」は、「芸術がままならなくても、せめて芸術を愛する心を持たせてください」という意味だ。

私は自分の文章がいつも照れくさい。身の丈に合わず、支離滅裂に見える。

でも、それだけ書きたい、好きなものがあるのだ。私はずっと、覚めれば黒歴史とわかっている明晰夢の中にいる。これからも、文学は美しく、言葉こそ世界だと、ぎゃあぎゃあ騒いで生きていこうと思う。


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