ポスト・レリジョン
ポストというと脱という意味でつかわれる。昔、日本仏教の研究を稚拙ながら行なっていた時、「ポスト顕密体制論」なる言葉があり、顕密体制論から脱構築していく理論の展開を学会や論文でライブでみていた感覚がある。
ポスト・レリジョンというと脱宗教と読め、宗教否定のように捉えられるが、その実は縛り付ける集団性、宗派性だと思う。
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その中で、ブッダは?法然は?という問題に向き合い、勇気を持って答え示したのは、本書だと思う。
ブッダと法然の人生、教えを比較し、その行動の差異と精神の共通性を指摘し、整理してくれている。
特に第五章の「生きること 死にきることは」俊逸である。そこで指摘されていることは、日蓮宗も含め考え、答えて行かなければならないことであろう。
我々が真に継承すべきは、「専修念仏」や「念仏往生」という法然の〈教え(teaching)〉なのか、あるいは「時期相応」という法然の〈態度(attitude)〉なのか。そこが問題なのである。これまでの仏教史がいみじくも教えているように、地域や時代(時)、そこに住む人々(機)に相応しい教えとしての仏教は脱皮し、生き延びてきた。 その典型例の一つが法然であり、その内容と意義については、本書で見てきたとおりだが、これを逆から見れば、脱皮しなくなった瞬間、古い皮に閉じこめられた仏教は窒息し、止滅する。大きな苦痛を伴う作業だが、それを我々は深く自覚しなければならない。(179頁)
教えと態度をどう捉え、時機に相応する。そのためにしっかりとブッタの精神と祖師の精神を学ぶことは大切であろう。問題は、祖師は2500年前の仏教の本来的姿を今日の我々のように知りいうることができなかったし、かつて述べたが、富永仲基の大乗非仏説など知りえなかったということをふまえ、どの精神を大切にし、継承し、どの教学を脱皮させていくのかを考えねばならないと思う。
宗派仏教の限界性は、宗祖無謬説に立ちがちな点にある。それはそろそろ超えていかねばならないことではないだろうか?
場合によっては、祖師の思想であっても仏教的でなくかつ現在には通用しないものもあるであろう。個人的には、それは克服していかなくてはならないものだと思う。
いづれにせよ、多くの学び、気づきを与えてくれた一冊である。
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