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日常化させてしまった幸せについて

2020.01.12

最寄の無人駅で、向かいのホームに渡るため歩道橋の階段を上がっている途中、
「この10cm弱の段差も、歩くのが困難な人にとっては障害なんやろうな。」
と思った。

その時に、
自力で10cm上昇することができるということが、人が幸福を感じるに十分な出来事だ
ということを再認識した。

同時に、
「こんなに身近に幸せを感じられることが在るのに、僕はどうして幸せを感じられなく成ったんやろう。」
と思った。

僕たちは日頃から繰り返す行動を習慣化することで、色々なことを同時並行的に実行しながら生活をしてる。
その習慣化する能力が、組織や文化などを生み出してこの世界がある。
人間だけでなくあらゆる生き物がその能力を使って生きてるし、生きるためにはその能力が必須だということも理解してる。

でも、僕はその習慣化能力によって感じられなくなってしまった幸せな出来事が、今現在も身の回りにたくさんあるような気がして、

日常生活の中にたくさんある幸せなことを忘れて、幸せになりたいとか思っている。
身の回りに既に在るにもかかわらず、自分にとって「まだ無い」と思う所にフォーカスを当てて、不幸だと思い込んでいるのではないか、
と最近自分に問うている。

自分にとっての日常が、きっとどこかの誰かにとっては理想の日々である
という、この状況を再認識した時に、

僕が今以上の状態を望むことの、
どこからどこまでが人として望んで当たり前の範囲で、
どこからどこまでが過剰な高望みなんやろう、
とグルグルと考えている。

僕が想い描く夢は、望んで当たり前の範囲にあるのか?

僕が今感じる不快感は、
不快ではなく不便であって、その不便さの解決は高望みではないか?

僕がそうやって作っていく幸せの尺度で、今の社会を生きて行けるのか?

逆に今の社会を生きていける尺度を持つことが、僕にとっての幸せに繋がるのか?

ゆっくり考えて行きたいと思う。

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