頂かは分からないが、最も醜く輝いていた頃の話

 8年ぶりの北の大地。私のこれまでについてを大学の講義でお話しするという大層貴重な機会をいただき、期待感に胸を膨らませ札幌へと向かった。
 北海学園大学で過日行われた「大村航太郎 解体新書―人生の頂はどこにあるか」にゲストとしてお招きいただいた。この講義では、「長井市地域おこし協力隊」や「山岳観光に従事する者」といった肩書が示すものではなく、私の過去そのものに焦点を当てて山崎さんと対談をさせていただいた。
 私は大学時代にアウトドアサークルを創設し、サークルの運営に尽力していたが、そこで人間関係等で精神に不調をきたし、同じ場所で生き続けることに限界を感じていたため、大きく環境を変えてもう一度生き直すべく長井市地域おこし協力隊に着任した。この経緯は独善的なもので、公の場に出す意味はないと判断したことや、後に述べる理由から心中に封印していたが、あるきっかけで話すことを決意した。それが山崎さんや森くんとの出逢いである。大学を休学していた森くんは、大学休学中に協力隊に着任した私の過去と共通点があり、当時私が隊員として最も若く年が近かったこともあって、2人のいる飲み会に上司からお誘いがあった。このとき、伝えるべきことは建前としての着任の動機ではなく、似た点を持つ人間がどうしてこの地に至ったかであると考え、人生の再起として移住を選んだことを話した。これは私にとって不安を伴うものであったが、しかし以降、山崎さんには「関係学舎」の第1話の記事で述べられている「大学時代にいろいろあった」というその場で明かし切れなかった部分に関心を持っていただき、その結果、今回の講義という大変ありがたい場所が生まれた。

 前置きが長くなってしまった。なお、今回の訪問では、大学での講義の翌日に富良野で観劇し、さらに次の日も苫小牧やエスコンへ行き、楽しい時間を過ごさせてもらった。旅を一緒にした宮崎くんとは初対面ながら隙あらばプロ野球の話で盛り上がったし、池内くんから聞く地元・苫小牧に対する捉え方も興味深いものだった。ただ、この記事では、講義で話しきれなかった大学でのサークル創設について述べ、「いろいろあった」ことへの返答とさせていただきたい。
 当日は私の10代の頃の話を中心にさせていただいた。ここを詳らかに振り返るともはや半生を語り始めることになるため、端的に表すと、「周囲ができることをできない自分」に気付かされる時期であったと感じる。成功体験を盲目的に信じられた小学校時代が終わり、周りに比べ自分のできなさ加減を認識するようになった。
 そんな私がこれまで最も心血を注いだこと、それが大学で創設したアウトドアサークルの運営である。

 さて、ここからはサークル創設以降の話をさせていただきたい。大学入学後、当初は別のアウトドアサークルに所属しており、2年の秋に同期の友人と退部することになったが、その友人からの「サークル作って!」というLINEに二つ返事で答えたことから、新たなアウトドアサークルを立ち上げることになった。面白そうという興味本位で引き受けたことだが、やるからには全力を尽くしたいという想いで、私の挑戦が始まった。
 新たに創設したサークルは、同時期に以前のサークルに所属していたものの、事情があり退部することになったメンバーを中心に構成されたのだが、私は高校から登山を始め、今後も山に登り続けようと思っていたのに対し、他の部員は大学からアウトドアを始めた者がほとんどであったため、彼らが今後もアウトドアに親しむ遊び場を創りたいと思っていた。以前のサークルで参考にしたい、改善したいと感じていた点を実践し、「上智で一番面白いサークルにしてやろう」と息巻いて努力していた期間は、間違いなく充実していた。組織を運営する上で直面する試行錯誤は、単位のためだけの勉強より余程有意義に感じ、たかがサークルと思われようが、自分で価値があると判断したものには可能な限りを尽くしたいと思い、私は全力を懸けてサークル運営に取り組んだ。
 しかし、私にとって過去最大の挑戦は、最大の挫折として返ってきた。
 私は規則で縛るやり方ではなく、自身の熱を以て他者が能動的に動く方法を目指し、茨の道だと分かっていたが、それを望み心血を注いできた。けれどその信念は届かず、自分一人が突っ走っている状況を嘲笑されていたと感じている。全ての言動や部員に当て嵌まることではないが、私がサークルのために投じた言葉や取った行動の数々がその受け取り手である者たちに足蹴にされているのを茫然と見ていることしかできなかった。
 ある日の部会で、組織を存続させるためにせざるを得ない指摘を行い、それが部員から揶揄されたとき。私が愛する場所でどれだけ力を尽くそうとも、変わらない現実があることを知った。自分が正しいと信じて進み続けていた道が間違っていたように感じ、足元からガラガラと音を立てて崩れていく感覚を味わった。それ以降、私にとって対人関係のあり方が変わっていった。
 もちろん、苦しかったことだけではない。一心不乱に目指せる目標があることは幸せなことであったし、自由を重視する方針もあってか、人数や規模も着実に拡大していた。自分の企画した活動で後輩から「楽しかった」と言ってもらえると、莫大な苦労が報われるような心持ちになった。
 そして何より、登山をしているときだけは、希望を捨てられずにいられた。
 だが、私にとってこの頃は、人生で一番の充実とともに、人生で一番の地獄が同居している期間であった。
 そんな気持ちを抱えながら長井市への移住を選び、冒頭の飲み会へと時間は流れていった。

 その人の痛みはその人の絶対的なものであるはずなのに、自分の知っている形に当てはめて解釈されることがあれば、私にとって到底許容できないものになる確信があった。それだけ、情熱を賭してきたものとその先にあった絶望を感じてきた。だから、この思いは明かさずに過ごしてきた。
 だけど今は、ここに関心を持ってくれる方がいるのならば、心の裡を話そうと思えるようになった。私自身も、いつかは昇華させないと前に進めないような気がしていた。大学時代にサークルの創設者として活動してきた経験は、私を支えてきた最大限の矜持であり、とっておきのトラウマだ。
 人と話すことが怖くなった。人を信じることが分からなくなった。悪夢なら飽きるほど見たし、涙腺は使いすぎて壊れた。
 それでも、登山のことは好きであり続けたいと思えたし、登山の面白さを伝えたいと思い続けられた。
 登山のおかげで、私は生かされてきた。登山があるから、私のこれからの道がある。だからこれからも、私なりの愛を持って、登山とともに生きたいと思う。

 大学での講義や旅行が終わり、長井へと帰る日。札幌の街を一人で歩いた。
 冷たい風が吹く。不思議と心は軽くなる。凍てついた道に慎重な一歩を踏み出す。心の中では、大きな一歩を。

(担当:大村)

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