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スプラッシュリバーの刹那〜定山渓ビューホテルを巡る一考察(2)

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  筆者が、根無し草の象徴のように社会的に意味づけられてきた多摩ニュータウンから、定山渓ビューホテルへと流れついたこと。それには、何らかの必然性があること。この記事を書く背景(バックグラウンド)には、その必然性を作り出そうとする「わたしの意志」があるのかもしれない。

  われらhomeport冒険団は、いよいよ水の王国ラグーンへ。まずは流れるプールへと向かう。少しぎこちないながらも、あのときの感覚を思い出していく。「あのとき」とは、明確な時間と場所を持った出来事というより、幾つかあった少年時代の場面の集合的記憶のようなものである。
 流れるプールには所々に上陸できる孤島のようなスポットがあった。その中の一つに、色鮮やかな海賊船のような造形物があり、その帆船の横には雨除けの水溜まりのような場所があった。身を浸してみると、あたたかい。ラグーンでは水浴と温浴のスポットが入り交じっている。 
  わたしたちは、少し流れた後、最初に通りかかった奥まった場所にある暗がりのプールへ向かった。おそらくオープン当初から遊具が配置され、プール内には「ラグーン」とマジックで書かれたビーチボールが無造作に浮かんでいる。その一つを何気なく掴んでボール遊びを始めた。水の中でのボール遊びなんて、いつぶりなのかすら思い出せない。私は、北大の構内でキャッチボールをする学生を密かに羨ましく思っていた。その念願が叶ったようで、言葉には出さないが嬉しかった。3人は長い時間、同じ教室や研究室で共に過ごした仲間ではない。私と宮崎君は2019年に出会い、古玉君とは2021年に出会った。二人が出会ったのは2022年5月。筆者のフィールドワークの場所である岡山県井原市(野外音楽フェス「hoshioto」が開催されている)がその舞台であり、二人はそれ以来の再会である。
  だから旧知の中ではないし、話さずとも通じる仲ではない(はずだ)。でも、このボール遊びの最中で、わたしたちは確実に分かりあった。特に言葉を交わさずとも、相手の取りやすい位置にボールをトスして、隣の相手(第三者)へと繋げる。ただそれだけのことだが、ただそれだけのことができていない現在の自分や社会に愕然とした。大学院でも、まずは新入生合宿で定山渓ビューホテルにいき、ラグーンでバレーをするべきだ。真剣にそう思った。

   ここでゾーンに突入したわたしたちは、小さな滝に打たれたり、温浴エリアなどを行き来し、私は徐々に自律神経のリズムを失っていった。そして、いよいよメインのスプラッシュリバーへと向かう。まずは、レンタルショップで専用のボート(浮き輪)を借りて、いざ実践。2人乗りのため、まずは宮崎くんと古玉くんに行ってもらう。このような場面で、私は舞台の外側で見守りたくなる習性がある。バックヤードが無性に好きなのだ。私は彼らが流れ落ちてくるさまを見ようと、ゴール地点に向かうが、道に迷いその瞬間を見逃してしまう。しかし、ゴール地点から上がってきた彼らの表情は、まるで昔からの幼馴染みのように充実していた。私はその幼馴染の仲間のようでもあったし、それを見守る兄でもあり父でもあった。ここに一瞬生まれた幼馴染と家族的なものは、誰であってもよかったのかもしれないし、誰でもありうる可能性があった。それは、この瞬間、ラグーンの時間と場所を共有していたカップルや親子連れ、外国人の従業員も同様である。偶然の積み重ねでこの瞬間の必然がある。だから、いつだって、誰だって幼馴染みや家族になることができる。でもそれは単なる偶然ではない。それぞれの個人の生が交わるところに必然が生まれる。出会ってくれて幼馴染みになってくれた宮ちゃんと古玉くんに感謝したい。
    さて、次はいよいよ私の番だ。二人でぐーぱーじゃんけんをしてもらい、宮ちゃんとボートに乗り込み、いざスプラッシュリバーのスタート地点へ。係員に誘われて乗り込むと、あっという間に始まった。予想以上にスピードが早い。時間にして30秒もあっただろうか。気がついたらゴール地点に到着していた。傾斜があるので、普通に乗っていればボートは転倒し、ここで皆が絶叫のゴールを迎える。
 その一方で、スプラッシュリバーの滞空時間は絶対的なものでもあった。あの一瞬の刹那をスローモーションのように想起することができる。あのとき、あの瞬間、私は子どもの頃のウォータースライダーの記憶や、ニュータウンから移り住んだ熊本の情景、あのときの仲間たちを思い出していた。現実は30秒に満たない時間。しかし、そこには38年分の身体の時間が確実に充満していた。ラグーンのスプラッシュリバーはそのようなわたしたちの時間をこれまで受け止めてきたのだ。そう思うと、妙な愛着が湧いてくるのだった。その後も、何度かスプラッシュリバーを繰り返したわたしたちは、そのボートを携えたまま流れるプールにクールダウンへと向かった。

   ボートには、 宮ちゃんと古玉くんの二人に乗ってもらい、わたしは後方からそれを押す。やっぱり後方(バックヤード)が好きなのだ。ラグーンはいつの間にか夕闇に差し掛かり、オレンジの灯りが点り始めた。夏休みの終わり、市民プールの夕暮れを思い起こす時間帯。ぽつぽつと言葉を交わしながらわたしたちはただ流れ続けた。ときに勢いよくボートを押して、スリルを味わってもらう。その喜びが嬉しい。
 流れる時間の終わりどきが分からず、3周ほど流れたところで、古玉くんが押し役を変わってくれた。そのさりげなさが嬉しかった。ボートに身を委ね、ラグーンの天井を眺める。わたしはやっぱり押し役(バックヤード)が好きみたいだ。しばらくして、ラグーンを切り上げたわたしたちは、地続きの大浴場「湯酔郷」へ。ローマの神殿と竹細工が折衷したようなビューホテルらしさ満載の風呂に少し身を浸した後、豊平川を見下ろす大露天風呂や、16階にある大浴場「星天」、そこからさらに階段で上がる展望露天風呂を矢継ぎ早にはしごする。普通の屋上に取ってつけたような湯船は、逆にビューホテルの野生を感じさせた。眼下には札幌の山並みが遠くまで広がっている。すっかり身体の温度が麻痺したわたしたちは、忙しなく夕食会場の「ロイヤルグランシャリオ」へ向かった。そこには「世界」が待っていた。(続く)


【参考文献】
 東浩紀(2023)『観光客の哲学 増補版』ゲンロン
 ―――(2023)『訂正可能性の哲学』ゲンロン


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