「好き」という感情が分からなくなった

noteのアカウントを作成して一発目の記事のタイトルがこちら。何故こんなことを書こうとしたのか、自分にも分からない。ただ、すごくモヤモヤしてる気持ちの捌け口が欲しかったのかもしれない。
2019年を振り返りつつ、自分の中に起こった変化と向き合おうと思う。

最初、自分はこうしたいと思っていた

2019年が始まった当初、一眼レフカメラを手に入れたというのもあり、今まで触れて来なかった分野にも興味を持って、どんなものでも多少なりとも知識があれば楽しいだろうし、それを誰かに話したり出来たらそれはとても充実したものになるんじゃないか。楽しいものを増やしたらなにか一つに依存することもなく、常に楽しい事を享受できるのでは、と思っていた。依存を分散させればなにか失っても泥沼にハマらずに済む。そうあれば「陽気で」「イキりたがりの」「年齢に見合わないやんちゃな」僕が存在し続けられると考えていた。

2019年12月31日の現状

正直言って何も手を付けたくない。何が楽しいのか、何が好きなのかわからなくなった。自分が何ができるのか、なぜ存在してるのか、わからない。人と関わるのも疲れた。知らない人が怖い。視線を感じるだけで因縁を付けられてるのかと心がざわつく。人の視線が怖い。目が見れない。
今年新たに知り合った人がかなり多いのでこういうこと言うのもとても申し訳ないのだが、ほとんどの人が顔と名前が一致してない。顔と名前まで覚えられた人はほんの一握りだ。はっきり言って「自分がなぜ今生きているのかわかってない」。なんとなく生き延びて、死ぬのが怖くて。何も踏み出せなくて。ただ無為に時間だけが過ぎている。そうしているうちに20代の終わりが近づいてきている。焦燥感はあるが何をして良いかわからない。一年後、下手すれば半年後に自分が生きているのかどうかさえわからない。何も見えてこないのだ。見えてこない事に対して、今まではどうでもいいと思っていた、そう言い聞かせていたが、今頃になってとても恐怖心が芽生えている。

1年でここまでに至った原因を自分なりに考察する

要因は複数あると思うが、主にこれなのかな、というものを上げてみる。
1つは、現在就いている職が上手く行ってない事。今年の夏くらいに、当時の直属の主任と全く馬が合わず、毎日のように気分が沈んだまま仕事をし、心が晴れない時期があった。元々自分の精神が脆弱なのは重々承知していたはずだ。しかし、感情の不一致を放置し続けると人は歯車が壊れるらしい。何をやっても上手くいかないとしか考えられず、少しでも誰かから指摘を受けると、自分など何も意味を成さないゴミなんだと心に刻み続けていた。被害妄想だとも言われたが、自分はこんなに傷ついてるんだと殻に閉じこもったような感覚。イライラだけは積もり積もって、変なところでそれが出てきてまた叱りを受けて・・・悪循環しかしていない。多少平穏があっても、少しでも乱れがあるとその事を引きずり続ける。
もう1つは、推しに対する感情がわからなくなった事。一応、趣味(と言えるかもわからないが)のライブ鑑賞、推しの追っかけは続けられていた。しかし、夏頃、自分の行ってた現場のルールが変わった。某声優アイドルユニットの事なのだが、自分の中で1つのアイデンティティとして心の根幹を支えてたとも言っていい事を容易く取り上げられた。
ちょうどその時期、自分の休日が合わない事や、とある事件による外的要因でしばらく推しを見ることも話す事も出来なかった。推しやその子のファン達は楽しそうな日々を過ごしている。一方自分は精神がすり減っている状態で蜘蛛の糸にもすがれない、そうこうしてる間に自分の心の中でどんどんネガティブな感情が生まれ続ける。そんな状態で久しぶりに推しに会って会話したとき、心が何も動かなかった。楽しいと感じなかった。後悔と反省ばかりが頭に浮かんだ。
以前、何なら現場に行き始めた頃から、「他の奴と比べて俺は大した会話も出来ないし、話下手だからさ」なんてことは言ってた。以前はそれに対する逃げ道が用意されてた現場であった。しかし、その道が今はない。自分にはこれがあるから、話が下手でも、伝えきれなくても、なんとかなると思ってたのに。こだわりは消され、何を掴んで挽回すれば良いかもわからず、そもそも自分は本当にその子が好きなのか、わからなくなった。

「好き」とは何なのか

記事のタイトルにもしているし、ぼちぼちこれについて考えてみようと思う。たぶん、1の意味が的確なのだろう。「心がひかれる」、ここに焦点を当てていく。僕は今年の上半期くらいまでは「その人に」心惹かれていると思っていた。しかし、とあるルールが変わった後に考えた。僕は「その人に」ではなく「それをやっている時間」に惹かれていたのではないかと。それができるなら誰でも良かったのか、ただ出会った時に依存先がなく、刷り込みから長々と頼りっぱなしになってたのではないのかと。ハシゴが無くなった途端、自分が投げ続けていた感情が全てまがい物だったのではないかと疑問が出た。
そもそも、僕は自身を含めた人間というか生き物全般が苦手みたいだ。今年になってそれを我慢することが困難になってると感じている。何故かはわからないが。喋るのが苦手とか人の目を見れないとかはここから来てると思う。たとえ可愛いなぁ、「好き」だなあと思っていた人でも、喋るのが苦手なのが高じて、もう喋らなくて良いか・・・になっている。「どうせこんな人間の話聞いてもなんとも思われないでしょ」「僕みたいな存在に時間を費やしてくれる人に失礼」のような卑屈な心はここ数年あったのだが、どっかで歯車壊れたからか、全ての事象に対してこう思ってしまう様になってる。

仕事をしてても、「こんな何も出来ない僕に時間を割いてもらってるとか何してんだろう」「一人で何も出来ないやつに価値なんてないだろ」「この仕事辞めたところで他になにかできることあんのかな」「そもそも自分って何ができるんだっけ」「生きてられる?これから。見えない」だし
ライブとかイベントとか終わった後に「なんであんな事してんだろなんにもならないのに」「あの会話はないわ、凡すぎるし」「誰かと比べたら行きもしないし文句だけ声がでかいし」「信者にはなれないけどアンチもしたくない。じゃあ黙る」「好きとか言ってたけどそもそもそれは何。」だ。

ええと、結局の所好きって何なんですかね。というか自分が何かに心惹かれて良いんですかね。何も得てない得る努力もしない人間に誰かを好きと言える資格があるのか、そんな事考えるくらいなら誰も好きって言わなきゃ良いのでは、もう何かに興味を持っても好きという言葉が出しづらい。知ってますけどよくわかんないです~って上辺をかするくらいしか出来ないのかな。

2020年以降の展望

最近、周りの知り合いには「もう来年は誰が好きとか推しとか言わずに楽しいと思ったとこ行きますわ。軽くやります。」みたいな事言ってんだけどそもそもその「軽く」さえ出来ない環境まで落ちてしまうのではないか、何もない状態でただ死にたくないから生き延びるだけの無機質になるのではないかと。何を支えにしても見えない何かに申し訳なくなるので何をする気にもなれない。踏み出せない。お金ない、趣味ない、友だちいない、他人怖い、身なり整えない。全てない人間はどこから手を付ければ良いんですかね・・・って考え続けた結果ゴールが見えないので何も手につかないわけです。誤魔化し程度に色々見てなにかに打ち込めるかなーっと思ったけど「僕は何に対しても他人からしたら本気になってない」。本気で人生傾けるくらい、注ぎ込めるものはハッキリ言ってない。じゃあ今まで好きだとか興味あるとか言ってたものは?どういう気持ちで追ってたの?わかんない。わからないんです。「好き」という感情がわからなくなったので。

最後に

小さい頃に好きだって言ってたものや人、改めて考えると本当に自分が好きだったのかよくわからないんです。「好き」って言葉使っておけばそういう人間なんだって多少なりとも色が出てたら良いんですけど。何者にもなれない僕の感情はこの世に必要ない物な気がした2019年年末でした。これからしばらくは「楽しかった」とか「好き」とかいう言葉は上っ面で使うだけになるんじゃないすかね。よくわからない締めでした。どこまで生きていられるかわかりませんけど死にたくない気持ちだけは本能にあるっぽいんで適当に。では。


体験したこと、思ったことなどをちょいちょい書いてきます。ご一助頂けたら嬉しいです。