結婚しました

 大谷翔平が。結婚した。息が詰まった。

 俺と大谷翔平は、同じ1994年生まれである。誕生月は俺のほうがひと月早いので厳密にいえば先輩だ。年功序列には厳しくいくよ俺は。大谷、と呼び捨てにさせてもらう。

 そんな後輩の大谷翔平に、俺は勝てるものが一つもなかった。なかった、という過去形を使うと、まるでこれから勝ち目が出てくるような言い分になる。厳密にいえば、勝てるものが一つもなかったし、一つもないし、これからもないだろう。けれどまあ俺は別にメジャーリーガーではないから、大谷と俺の幸せのベクトルは違って、俺はアメリカの大地でホームランを打つために生きてきたわけじゃない。じゃあ何のために生きているのか。決まっている。家庭。俺はそれが欲しかった。妻とペットと、少しして一姫二太郎。そんな幸せな家族の生活を夢描いていた。そして団欒のひと時で、家族で囲むテレビの野球中継、wbcとかで、大谷が活躍するのを眺める。ライアン・プリーが放った甘いチェンジアップを打席に立った大谷が振りかぶって、打つ。球は空高くあがってカイル・タッカーが懸命に追うけれどみごとホームランになる。テレビの前で、俺と妻と娘と息子が拍手喝采する。俺はふたりの子供たちに言う。大谷翔平はね、俺の後輩なんだよ。そんなふうに自尊心を満たす。猫がゴロゴロ喉を鳴らしながら俺の足元にすり寄ってくる。そんな青写真。

 ところが、どうだ。俺に娘はいない。息子も妻も猫も。大谷には、いる。妻と犬。子どももじきにできるだろう。俺が喉から手が出るほど欲したものを、大谷はたやすく獲得していく。大スターの一員となった果てに、俺みたいな庶民の夢さえもすんなり叶えて、もう俺の自尊心はずたずただ。どうしてくれる、大谷。見てるか大谷。読んでるか大谷。見向きもしないだろうなお前は。足元のぺんぺん草を大谷翔平は何の気なしに踏みにじる。彼がまなざしている世界はあまりに広すぎて、地べたにはいつくばって息も絶え絶え明日の予定もわからないこのまま引きむしられるのがオチだろう俺みたいな雑草を、閑却してしまう。けれどもいいか。俺は見てるぞ。大谷。お前の活躍を見ている。お前がこの前のオープン戦でホームランを打ったことも知ってる。知ってるんだぞ。これからも見ているからな。幸せになれよ。

 とはいえまあ、分かり切っていた彼我の差をこうまで見せつけられると、苦しい。同じおよそ三十年という時間、大谷と俺とのあいだで唯一等しい時間の流れ、この間で、こうも天と地ほどの差が開くとは思わなかった。俺がたとえ大器晩成型の人間であったとしても、もう序盤の大谷のダッシュが凄すぎて追いつけやしない。さすがは攻防走そのどれもに抜きん出た選手だ。これからは大谷様と呼ばせていただきたます。呼び捨てなんてあたしにゃ恐れ多いですよ。いやいや尊敬してます。本当です。頭が上がりません。産まれた時から負けてました。あたしが産まれて初めてしゃべった言葉は大谷です。本当ですよ。へへ。あたしにもせめてその幸せのひとかけらをお恵み下さらないですかね…………。

 日記。朝、目が覚めたら俺は大谷翔平じゃなかった。洗面所にいって顔を洗った。鏡を見て、やっぱり大谷翔平じゃなかった。仕事に行くため靴を履いた。靴のサイズは27。大谷翔平は28.5。俺は大谷翔平じゃなかった。職場に行って、ホームランは打たなかった。帰り道、雪で歩道が凍っていて盛大に転んで俺は大谷翔平じゃなかった。地下鉄に乗ってyahooニュースを見た。大谷翔平が結婚していた。俺は大谷翔平じゃなかった。家に帰って買いだめしていた酒を飲んだ。こんなはずじゃなかった。人生。

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