PERCHの聖月曜日 90日目
高橋由一や、黒田清輝や、青木繁をも含めて、明治の画家たちが–––いやさらには明治のエリートたちが–––皆そう出会ったように、狩野芳崖も、時代の要請として、社会的責任を負わされていた。まして彼が、維新の変革に大きな役割を果した長州豊浦藩の出身であったことを思えば、彼が絵筆をもって「お国のために」尽すのを自己の当然の使命と考えていたのも充分にうなずけることであろう。彼のそのような使命感は、時に、画家の使命は大いに絵を売って国防のための軍艦を買うことだというような単純な発想となってあらわれたが、時にはまた、あのあの美術学校創設のために見せた驚嘆すべき情熱ともなって、現実に歴史の上にその跡をとどめた。彼はつねづね、「ひとりの芳崖よりも幾百幾千の芳崖を作ることの方が大切だ」と語って教育の必要を強く確信していたが、その彼が、自分の生涯を賭けた大作を手がけるにあたって、北宋ではなくて唐の画家を範として選んだというのは、それこそが東洋の美術のなかで最も優れたもののひとつであり、しかも国際的に通用し易いものであったからであろう。フェノロサのような「国際人」がそのような見方を抱いていたとすれば、芳崖は一も二もなくその見方に従ったものであるに違いない。フェノロサが芳崖を呉道子の後継者と見たのわきわめて正当ではあったが、実を言えば、半ばは、フェノロサが彼を呉道子の後継者に仕立て上げたのである。「悲母観音」が技巧的に完璧でありながらどこか物足りなさを覚えさせるのも、おそらくは、理想的範例としての呉道子を意識し過ぎたからであろう。
ーーー高階秀爾『日本近代美術史論』講談社,1990年,p187
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?