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我が「トーマの心臓」譚(連載No.9)-純愛信仰と信仰弾圧の中で起きた『殉教』(歴史信仰弾圧篇)

1989年12月19日(火)朝刊

私は当時朝日新聞において記事を確認した。
朝日新聞の紙面以外に誰一人私に知らせるものは居なかった。
新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の2日後、自殺事件翌日の1989年12月19日(火)朝刊にて確認した事実は「朝日新聞の記事情報」だけだった。
そして後に知るが「奈美さん」の実名報道は朝日新聞だけだったのだ。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の殉教事變

バビロンの滅亡、挽臼のような石の投下/躓きに面して、ほか

神の怒りによって解放された21の災いののち、イエスは最後にサタンに打ち勝つ。サタンは底なしの淵に投げ入れられ鎖でつながれる。殉教者の血で染まったローマの荒廃の上に、天のエルサレムが浮かび出て、キリストの勝利が明確になる。

ヨハネへの黙示の第19章以降はその諸相を物語る。

「トーマの心臓の」の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」と彼女(奈美さん)の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」

斉藤由貴が書いた「トーマの心臓」のコミック評を読むと斉藤由貴は「トーマの心臓」を特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)と見做している。
そしてその「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」が形成する「人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))」の正体は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」へ堕ちることを意味している。
斉藤由貴の「トーマの心臓」のコミック評は萩尾望都の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に対する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)としてあるのだろう。
ここに「違和感」を感じずにいられないのには理由がある。
何故ならば斉藤由貴は萩尾望都を深く敬愛していると書きながら明らかにそのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対して「敵対感覚〈原罪〉」を形成しているからだ。
斉藤由貴は萩尾望都の大傑作を絶賛しているように見えて実は敵対している。
明らかに作為を持ってこのコミック評が掲載されたと見做すべきと判断できる。
萩尾望都のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)から生まれる「信仰」に対し「敵対感覚〈原罪〉」を形成し「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdox」aを行っていることが明白となっている。
ユリスモール・バイハンへ行われた「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」と同じであり「トーマの心臓」を冒涜する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)である。

近年の夏目漱石関連NHK番組データ

これは夏目漱石についても言えることです。
近年「NHKドラマ」などで夏目漱石の人物像の書き換えが行われてきているのを皆さん感じておられるだろう。
それは「真実の発見」というよりプロテスタントデマゴーグ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)としてある。
何故ならば何が真実(Holy Communion)であるか何がデマゴギー(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であるかを判別することが曖昧な事実関係においていくら強硬に主張しても不毛であるだろうからです。
それをいくら強硬に主張しても「嘘本当問題」であり「NHK放送番組」だからそれが「本当」だと一体誰が証明できるのだろう?
そのような疑問がでる理由は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」だけがイマーゴ(真善美の回復)を真に受肉することができるからです。
その証明はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を指し示すしかありえないのだ。
「NHK放送番組」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を指し示していますか?
「NHK放送番組」にあるように「夏目漱石が実はお茶屋の女主人(水商売)とよろしくやっていた。」という事実関係は本当かもしれない。
または「NHK放送番組」は「捏造」であるか「誇張」であるかもしれない。
しかしそのような事実関係の真偽を論っても聖人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))の可否を判断することはできないだろう。
NHKは「夏目漱石」のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)に対する「敵対感覚〈原罪〉」を持つだけで自らのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を指し示しそれを証明する行為を一切行っていない。

それは「最高悪(サタン)の定義」を意味する。

Sa・tan [séitn]〓
―n.
1 (キリスト教で)サタン,悪魔(▶the devil の固有名詞);悪魔のような人間:Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと):〓
2 〖軍事〗 セイタン:旧ソ連の ICBM の NATO コード名.
[900年以前. 中期英語,古期英語<後期ラテン語<ギリシャ語 Satân,Satán<ヘブライ語 śātān 敵]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

それはNHKがカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を持っておらずイマーゴ(真善美の回復)がないことを示している。
今回の証明はNHKがプロテスタントデマゴーグ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であることを究極に示している。
生涯一回もオナニーすらしない存在が立派な聖人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))であるというわけではない。
何故ならばカトリックロゴス感覚(Holy Communion)こそが聖人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))の第一条件であるからだ。
人が「清貧の思想」と「慈愛の思想」を持っていてもそこにカトリックロゴス感覚(Holy Communion)がなければそれは「偽善(仮面)」とされる。
私は「萩尾望都」も「夏目漱石」も「ペルソナ(フロイト精神分析(自由の相互性〈相互愛〉))」であって「偽善(ユング心理学(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」ではないと考えている。
そして「トーマの心臓」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が「時の徴」としての「聖書」となった在り方である。
「永遠の命の徴(Holy Communion)」となったトーマ・ヴェルナーによるユリスモール・バイハンに対する「純愛の絶対証明(Holy Communion)」によって可能となった「永遠の救済(Holy Communion)」の話である。
私はこの小学館叢書の「斉藤由貴のコミック評」を読んで不可解に感じた。
このコミック評では特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)に「トーマの心臓」を貶め弾圧していることになるからだ。
結局このコミック評はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対する「敵対感覚〈原罪〉」によって「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」という「立ち位置の印象操作」を行うことになる。
最悪の「オタクの二次創作」と見做せる。
「オタク芸術」なんてありえない。
何故ならば「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」に敵対した「オタク芸術」なんて「最高悪芸術」でしかないからだ。
「最高悪芸術」なんてありえない。
だからそれは「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」に対する「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」であるだろう。
斉藤由貴のコミック評は明らかに萩尾望都に敵対して掲載された。
夏目漱石のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)から生じる「信仰」を潰す「NHK放送番組(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と同じであるだろう。
「信仰」に対する「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」であった。
斉藤由貴は「トーマの心臓」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「信仰」を潰すために送り込まれたのだ。
この斉藤由貴のコミック評では「トーマの心臓」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に「敵対感覚〈原罪〉」を持った「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」の作品とされる。
私はこの斉藤由貴のコミック評から「萩尾望都に対する敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を暴露し「トーマの心臓」の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を守護する。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の守護は彼女(奈美さん)に対する私の最低限の務めであり「純愛の証」としての「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としてある。

「トーマの心臓」の「永遠の純愛(Holy Communion)」の「証明」はユリスモール・バイハンを救済するためにあった。

「奈美さん(トーマ・ヴェルナー)の死」はその「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によって誰を救済したのだろうか?
この事件は一体誰が彼女(奈美さん)のユリスモール・バイハンであるかという最大の謎を呼ぶことになる。
しかし私(大石宗磨)は彼女(奈美さん)に「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を見てしまう。
そのような「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」は「相互愛」として存在する。
それはユリスモール・バイハンの存在を自分に見てしまうことを示している。
そしてトーマ・ヴェルナーの存在を「奈美さん」に見てしまうことを示している。
その判断は私の「人生経験」から受肉した「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」よりくる直観と「新聞記事(Holy Communion)」からでしかない。
しかし其処にある「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」は「永遠の純愛証明(Holy Communion)」なのです。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の受肉としてある。
「時の徴」であり「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」である「聖書」である。
しかし「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」を貶め弾圧することで人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」を捏造する。
そのような捏造は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」のための「その正当化(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」でしかない。

おもい‐こみ【思い込み】 オモヒ‥
思い込むこと。固く信じて疑わないこと。「—の強い男」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

ドクサ【doxa ギリシア】
〔哲〕臆見。思い込み。プラトンが根拠のある真なるエピステーメー(知識)に対し、根拠のない主観的信念を指して呼んだ語。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

ドクサ
doxa
「臆見」を意味するギリシア語。⇨エピステメの対立概念。低次の認識を意味する語としてドクサを初めて使ったのはクセノファネスであるが,永遠不変の存在についての真なる確証に対して,感覚に基づくドクサを立てたのはパルメニデスである。プラトンは後者の思想をうけて,真実在についての知識(エピステメ)と感覚的事象を対象とするドクサを認識論的存在論的に峻別,さらにドクサを感覚的個物に対する確証と感覚的個物の似像に対するエイカシアに区別した。アリストテレスはこれに対して存在論的区別を退け,エピステメを一般者ないし必然的なものについての判断とし,ドクサを感覚的個物にかかわるものとしている。エピクロス派では感覚そのものは真と認めるが,感覚に近い自発的な精神作用であるドクサには感覚の明証性の限界を踏越えて誤謬の可能性があるとしている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

おっ‐けん【臆見】 オク‥
臆測にもとづく意見。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

臆見
(オクケン)・(オッケン)
自分ひとりの考え。また、あて推量の考え

『新漢語林』 大修館書店

「ネグレクト(あざとい自閉)」によって形成した自分に都合のいい「既成事実化(アリバイ証明)」が侵害される場合に「加害者の方が傷ついた(自分の心が擦れた)」と主張する。
それは「人間動物の冒涜チンパンジー」の「逆ギレ」と同じである。
劣等者の「あべこべの被害者意識」であり「あざとさ」であり「逆ギレ」なのだ。
「日本人の独自性」はそのような「あざとさ」であり「逆ギレ」の在り方(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)だった。
「日本文化の独自性の在り方(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」は「最高悪崇拝」の在り方(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)でしかなかった。
または「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」と言う「愚民政策」だった。
要は低能で劣等な在り方(愚民の在り方)であり「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」を「原始的段階に近い在り方〈一方的自由の陰険〉」へ貶す「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」が日本文化の独自性の正体であった。
「歴史(Holy Communion)」と「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」は違う。
「私と奈美さんの間」に「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」は存在しない。
私たちは「歴史(Holy Communion)」でしかないのだ。
そのような「歴史(Holy Communion)」こそが決して「覆らない歴史」であり「純愛」である。
人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」によって「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を完全弾圧する。
「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」を貶め弾圧することで特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」を形成する。
特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」の在り方であるオタク(最高善の神に対する敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))の「二次創作の歴史観(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を「芸術」として権威付ける。
詐欺師行為を扇動された人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」を賛美し〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉を攻撃することで「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を完全弾圧する。
其処にあるのは「間違い」の存在しない「虚飾の歴史(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」である。
「虚飾の奇跡(何でもあり)」による人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」としてある。
そのような人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」はバベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)である。
人は「間違い」を犯すものだがそれを決して認めない存在がいる。
人が「間違い」のありえない「全知全能」の存在だと主張する行為は人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))によるバベルの塔(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)の建造である。
いくら勉強し研究したと主張する学者がいてもカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解せない存在ならば真の学者とは言えない。

一体何を学んだのだ?

「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」に対して〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉がある。
それが「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の受肉した「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」であり「聖書」である。
一方で「虚飾の奇跡(何でもあり)」によるプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉は「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」を捏造する。
それは人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))の在り方でしかない。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のない「虚飾(レトリック)となるのだ。
しかし「写生文」には「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の受肉がある。
このようにこの投身自殺事件は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が受肉した「写生文」と言える。
何故「写生文」かと言えば「永遠の命」を描いた「芸術〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」となるからです。

この一点においても「奈美さん」が「殉教」であることを明確に示している。

この「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が「時の徴」となり「永遠の純愛(Holy Communion)」となるのだ。
このような「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」は「聖書」として「永遠の命(Holy Communion)」となるのだ。
「ネグレクト(あざとい自閉)」による「既成事実化(アリバイ証明)」は覆るだろうが「歴史(純愛証明)」は覆らない。
奈美さんの投身自殺事件の殉教の在り方は「純愛」の在り方であったのだ。

※「時の徴」に関する詳細は「ジブリ」について書いた作品を御覧ください。

「トーマの心臓」の初版ページ

※斉藤由貴は1989年の12月10日(土)初版第一刷発行の小学館叢書版「トーマの心臓」に評を載せている。

※彼女(奈美さん)の死が1989年12月18日(月 新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の翌日)

つづく


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