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我が「トーマの心臓」譚(連載No.10)-純愛信仰と信仰弾圧の中で起きた『殉教』(柄谷行人篇)

萩尾望都作品「トーマの心臓」の購入-柄谷行人の存在

萩尾望都タロット 愚者 0 THE FOOL

私が所持している朝日新聞の当時の切り抜き

私が「トーマの心臓」を購入し魅入られたのには幾らかの経緯がありました。
「斉藤由貴」の評を読んで魅入られたわけでは全くありませんでした。
それは当時も現在も批評家として影響を受けていた柄谷行人の存在でした。文芸批評家の柄谷行人を知ったのは高校生の頃でした。
そして柄谷行人とは当時法政大学の教授であり批評家であり作家であり様々な肩書がありました。
柄谷行人は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に対する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を賛美する作品(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を明らかに嫌悪していました。
柄谷行人の書いた批評論考(Holy Communion)を読んだ私はそこに揺らぐことのない信用を見た気がしたのです。
後に書きますがそこに〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉によって「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」の叡智(イマーゴ〈真善美の回復〉)へ向かっていることが理解できたのです。
仮に柄谷行人が躓いたとしても、彼には〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉によって「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」の叡智(イマーゴ〈真善美の回復〉)へ向かう救済の道が明らかにあるのです。
それは「究極の救済」だと感じました。
しかし人間関係において「ナザレのイエス」のように殺害される人(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))も柄谷行人のような人です。
私は柄谷行人を知ってからずっとそれを警戒していました。
何かあった時に柄谷行人を助けにいくためです。
「ナザレのイエス」と「ソクラテス」を救済することは「敵対感覚〈原罪〉」を警戒することでありました。
しかし「敵対感覚〈原罪〉」の標的は私であったのだろうと今は感じています。
そしてそのような「ユリスモール・バイハン」を救済するためにあった殉教が「奈美さん(トーマ・ヴェルナー)」であっただろうと感じているのです。
この事件は現実に起こった「トーマの心臓」である。
ただこれは一つの「仮説」でしかありません。
しかしその「純愛」を理解するのは「相互愛」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「ペルソナ(愛する友人(自由の相互性〈相互愛〉))」でしかないでしょう。
それは「仮説」としてしか存在しえない上に「理解者」も「相互愛」の「ペルソナ(愛する友人(自由の相互性〈相互愛〉))」でしかありえない「非常に個人的な事実関係」となる。
この「仮説」と「実験」による「科学的思考」は「純愛証明」として「永遠の命(Holy Communion)」の「証明」となる。
これは「永遠の命(Holy Communion)」の「仮説」と「証明」なのです。

かせつ【仮説】
hypothesis
ある自然現象または社会現象の観察や実験の事例から,現象を説明し,あるいは法則を見出すために,設けられる基本的な仮定。仮説に基づいて推論された結果は他の事例の観察や十分に選択された条件下での実験により検証される。その仮説は検証結果が可であれば法則として認められ,否であれば修正ないし廃棄され新しい仮説に取替えられる。仮説の有効性はこのような一連の作業により対象の認識が深められる点にあり,その意味で作業仮説ともいう。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

hypothesis (hī‐poth′ĕ‐sis)〓
[G. foundation, assumption <hypotithenai, to lay down].仮説(発見的目的のために提唱される推測conjectureで,これは定義された実験の遂行と実験的データの批判的構築による確証または論証に従う型式で組み立てられている.想定assumption,仮定postulationや,焦点の定まらない推測unfocused speculationとは区別すべきものである.→postulate; theory).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

柄谷行人先生の直筆サイン

柄谷行人先生の自筆サイン 
新宿紀伊国屋(前川國男設計)の講演会後のサイン会にて

「偶像崇拝と呪術崇拝の原始的段階の在り方〈一方的自由の陰険〉」ではなく「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」である「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の柄谷行人のサインである。

大石宗磨蔵書書籍より

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧し特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を扇動する作品は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」の存在を示している。
ただ「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」と書いたが実際には「最高善の神に対する陳腐な敵対者」であるだろう。
何故ならオタク(最高善の神に対する「敵対感覚〈原罪〉」の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉))は「純粋な感覚」とされ「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」と呼ばれているだけだからだ。
これはみっともない存在であるだけなのだ。
「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」は「立ち位置の印象操作」による詐術であり特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を「穢のない純粋な欲望」とする。
「穢のない純粋な欲望」は「立ち位置の印象操作」としてある。
これが「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」という奇妙な概念に拠る「特殊詐欺(特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威〉)」である。
しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持ったものは「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」を「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」と見做す。
それは「循環論法」を「循環論法」と見做すことと同様である。
それはロゴス感覚(Holy Communion)へ向かう「信仰」なのだ!
「特殊詐欺 (特権階級〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」をINNOCENT〈傲慢の大罪)〈欲望の美化〉により貶め弾圧し特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を賛美することで「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」を扇動する。

"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Pure love (Fair) is Malice (Foul), Malice (Foul) is Pure love (Fair). but Pure love (Fair) is Pure love (Fair), Malice (Foul) is Malice (Foul)."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

純愛
(ジュンアイ)
まじりけのない愛。純粋な愛情。ひたむきな愛。

『新漢語林』 大修館書店

じゅんあい【純愛】
pure love

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

púre lóve
⦅米俗⦆ LSD.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

イノセント【innocent】
純粋なさま。無邪気なさま。「—な微笑」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

※「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」には〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉も存在しない。
それは「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」を示している。

※「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」こそが「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」としてあるのだ。

「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」と見做す。
そこにはそれを正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)する理由はないのだ。
しかし「トートロジー」と「循環論証」により正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)が形成される。
それは「屁理屈(前衛詐欺)」でしかないのだ。
それらを「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」という「奇妙な概念」と見做すことにより「詐術の在り方」が明確になるだろう。
それが「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)」であり「時の徴」である。
オタク(INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉)はオタク(INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉)であり、特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)であるが同じことを示している。
そして一瞬で私は柄谷行人を理解した。
「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であれば「反省」をする人物だと知ったのだ。
「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」又は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉と知ったら」必ず「反省」と「自省」する人物である。
それは「悔い改め」のことを示している。
「悔い改め」は「最大の掟」とされる「隣人愛」の対象であり、「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「悔い改め」をする人を「隣人愛」によって深く愛する。
そしてそれが「最大の掟」とされる理由は「科学的思考」の理屈と同じで〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉によって「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」へ導かれるからです。
「至高の抽象化の高み(自由の相互性〈相互愛〉)」は叡智でありイマーゴ(真善美の回復)のことを示している。
そのような〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としてある。
それは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のことを示している。
「信仰を持った者」にはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が受肉するのです。
それは最高善の神の下で自らを問い「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であれば「反省」し「自省」する。
それは〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉であり基本的な「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の在り方である。
それは「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)の追求の基本」でもあった。
それは「無知の知(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」とも呼ばれるものも同じだった。
最高善の神を信仰するということは「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復)の追求」をすることを示している。
〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉が形成する「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰者(Holy Communion)」へ攻撃を加えるものは〈「傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉」であり最高悪と呼ばれる。
何故なら〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉によって可能となるのが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」という最高善であるからだ。
「最高善」に対する「敵対感覚〈原罪〉」が「最高悪」であることは理解しやすい。

「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」は〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉を総攻撃するのだ。

Sa・tan [séitn]

Sa・tan [séitn]〓
―n.
1 (キリスト教で)サタン,悪魔(▶the devil の固有名詞);悪魔のような人間:Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと):
2 〖軍事〗 セイタン:旧ソ連の ICBM の NATO コード名.
[900年以前. 中期英語,古期英語<後期ラテン語<ギリシャ語 Satân,Satán<ヘブライ語 śātān 敵]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

しかしそのような総攻撃を受ける人物は一流であることを証明している。
柄谷行人はそういう意味で世界的に高評価された稀有な本物(Holy Communion)と言えるだろう。
しかし柄谷行人の批評が一流の理由がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉にありそれが「信用(Holy Communion)」の在り処だった。
私は柄谷行人を知って以来いままでもこれからも信用するだろう。
私が十代の危機的状況から現在まで生きてこられたのは投身自殺した「彼女(奈美さん)」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と柄谷行人の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によってある「2つの信用(Holy Communion)」が大きかった。
「この人は信用できる。」と私は見做したのだ。
「人を信用できる。」ということは非常に大きなことなのです。
何故なら「信用(Holy Communion)」とは「純愛メシア信仰(Holy Communion)」による「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」としてあるからです。
「信用(Holy Communion)」とは「時の徴」であり「カトリック感覚(Holy Communion)の歴史」としての「聖書」なのです。
それだけで生きていけるほど大きいものなのです。
当然「投身自殺を持ってカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を治癒(救済)したもの」と「文章(Holy Communion)を発表しカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を示したもの」とは同様な存在とは言えないかもしれない。
しかし私にとってはそのカトリックロゴス感覚は生きることの支えとなる存在だった。
特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉は「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)」である。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上とする理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)は「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復))」を至上とする。
「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)」のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉は「イマーゴ(真善美の回復)」に「敵対感覚〈原罪〉」を形成することで「信用社会(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を形成する
又、特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁ずることが理性(自由の相互性〈相互愛〉)である。
そして理性(自由の相互性〈相互愛〉)へ向かう導きを「福音(メシア)」という。
そこにしか真の「信用(Holy Communion)」は生まれません。
「キリスト教カトリック神学(Holy Communion)」である「フロイト精神分析(自由の相互性〈相互愛〉)」は「福音(メシア)」による理性(自由の相互性〈相互愛〉)へ向かう導きがあった。
それは最高善の神の「ペルソナ(カトリックエリート(自由の相互性〈相互愛〉))」のイマーゴ(真善美の回復)を示している。
萩尾望都先生の「トーマの心臓」はそのような「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を描いた大傑作であるのだ。
萩尾望都先生の「トーマの心臓」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」である。
しかし特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)が扇動する「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」をサブカルチャー(オタクの二次創作(プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉))という。
当時「人間不信」と「自己不信」に陥って苦しんでいた私にとってそのような特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を至上とする「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」は苦痛の源であり最悪な存在だった。
特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を至上とするように扇動する「業態(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「プロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)〉」は「最高悪」であった。
柄谷行人がそのような「特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪していることが彼の作品を読んで明確に解っていた。
「こんな人がいてよかった」
私は柄谷行人の存在を「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」で信用し彼から多くの「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を受肉して学んでいったのだ。
柄谷行人は私が当時「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」で信用できた唯一の文章家だった。
柄谷行人は特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を真に嫌悪することを至上とする人物であると私は見做したのだ。
特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪する「理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)の人物」だった。
彼は「理性(自由の相互性〈相互愛〉)への福音(メシア)」を齎していた。
柄谷行人は私にとって「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の福音(メシア)」であった。
彼の著書(Holy Communion)を読めば其れは明らかだった。
いくら彼本人が弾圧して見せても柄谷行人が理性信仰(自由の相互性〈相互愛〉)を至上とした「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)のペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉)」の存在であることは明らかであった。
「真の演技(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」とは「〈立ち位置の印象操作〉の詐欺行為」とは全く違うという意味である。
それは「福音(メシア)」による理性(自由の相互性〈相互愛〉)へ向かう導きだった。
私は「柄谷行人(福音(メシア))」は信用できるとそれ以来ずっと思っている。
今でもそうだ。
近年、柄谷行人の自宅近くの長池記念館で行われた「長池講義」に多く参加させていただき本当に感謝している。
その後も場所を変えて開催された「たんぽぽ舎」での長池講義も参加させていただいた。

絶体絶命を何度もくぐり抜けてこられたのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の福音(メシア)」である「彼女(奈美さん)」と「柄谷行人」の2人の存在(Holy Communion)による支えがあったからだ。
そして当時読んだ柄谷行人の批評作品に柄谷行人が教授を務めていた大学の女学生から萩尾望都先生の「トーマの心臓」と「ポーの一族」を勧められ読んだことの逸話が掲載されていた。
それを読んで私は萩尾望都先生の作品に興味を覚えて読むことに決めたのだ。
私には少女漫画は縁がなかったので敷居が高かった。
しかし柄谷行人の指摘は正しいことを自らの判断で確信し私は少女漫画作家萩尾望都先生のそれらの作品を読むことに決めたのだ。
そこでは漫画賞を受賞した「ポーの一族」ではなく「トーマの心臓」こそ評価されるべき秀逸さがあると暗に仄めかされていました。
柄谷行人をご存じの方なら当然知っていると思うが、柄谷行人が自分の作品に敢えて掲載することはかなり重要な「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」があるのです。
「知っておくべき事実(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」や「最高善の神のイマーゴ(真善美の回復・カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」について巧みに指摘しているからです。
それが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」なのです。
女学生との何気ないマンガの会話が実はかなり重要な啓蒙(Holy Communion)を含んでいると思われました。
だから私は柄谷行人が言うことは何でも聞くようにしている。
必ず「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の何かがあるのだ。
それが聖痕(Holy Communion)であり新約聖書の福音(メシア)と同様となっているのです。
それは理性(自由の相互性〈相互愛〉)へ向かう導きの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の福音(メシア)」があるからです。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の福音(メシア)」の「香り」がするのだ。
其れが何気ない発言であっても柄谷行人が敢えて発言することは重要な意味があることを示している。
それは彼が特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪する「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上としていることを示している。
特殊詐欺師(特権階級社会〈カトリックロゴス感覚へ敵対する権威付けシステム〉)を嫌悪し禁ずることは「〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の正当化(スーパーフリー〈一方的自由の陰険〉)」を嫌悪し禁ずることであるのです。
そして彼は其のずっと後になりますが「紀伊国屋ホール」で行われた福島原発事故に関連して開催された反原発シンポジウムで自らを「アーティスト」であり「作家」であると敢えて発言されました。
私はそこに自分と「同じ香り」がしたのだ。
「純愛メシア信仰者(Holy Communion)の香り」である。
そしてその敢えて発言された柄谷行人の示している真に価値があるものは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」による「聖痕の徴の受肉(Holy Communion)」でありそれは「芸術家〈パウロの手紙に見られる信仰希望の3つの徳の対神徳〉」であり「作家(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉))」であるのだということを柄谷行人は伝えていたのだ。
それが「ナザレのイエス」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の福音(メシア)である。

つづく

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