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本との和解

 来訪者があった。
 仮にO氏とS氏とする。

 両氏は高校来の友人である。S氏は、高校時代もそれ以降も、重要なタイミングでいつも一緒にいたように思う。一方のO氏は、在学中にも話していたが、よく話すようになったのはむしろ卒業後だった。
 彼らは、非常に頭が切れる。そして、俺のことをいつも的確に評価してくれる。俺が優れている部分と、それより遥かに多い俺の愚かさを、凡庸さを、よく分かってくれているように感じる。

 彼らは、本が散らばった俺の部屋にしばらくいた、そして、「君はこの部屋の本と、和解したほうがいい」と言い残し、その部屋を後にした。

 何か重大なことを言われた気がして、それで、いくつかのことを思い出すことにした。



1.無限の本、への絶望

 地元の図書館の一角で、絶望をしたことが何度もある。初めはたしか「社会学について知りたい」という漠然とした要求をもって図書館に行き、関連する本の多さに絶望したのだった。そして驚くべきことに、要求の範囲が狭まってもなお、本が無数にあるという感覚は変わらなかった。それで、図書館での絶望は複数に渡ったのだ。
 絶望したのはただ、要求に応える本が無数にあったから、ではない。要求に応える本が無数にあると感じているのと同時に、それらの本は無数にあるわけではないのだという、板挟みの現実に起因している。
 ある区画内にある本は、その数を数えることが可能である(可算的=countable)。だから、それらの本を1冊ずつ読んでいけば、区画内の本を全て読み終えることが原理的に可能である。そしてそのことは、特定範囲の知識を図書館の中で得たいと欲望することへの、究極の解である。しかし実際には、読書に費やすことができる時間が限られているため、そのような試みは不可能である。

むかしのメモより

 3年か4年ほど前に残していたメモの一部である。
 大学への進学が決まり、進む先の学部の本を、入学前に読んでおこうと図書館に足を運んだときだったか。あるいは、入学してから、課題のために図書館を訪れたときだったか。
 この絶望を、俺はよく覚えている。今でも多少は共感できることがあるし、今では心持ちが違う部分もある。
 読むべき本は無数にある。そしてそれは実際には「無数」ではなくて有限であって、だけどそれを読むことは原理的に不可能で……
 今思えば、この事実に絶望していたことの前提には、「読むべき本を読めば読むほどいい」という、ある種資本主義に毒されたかのような考えがあった。多ければ多いほどいいってわけじゃないことは、最近になって分かってきた。何かを書くことで終わらせる、何かを話すことで終わらせる、あるいは明確な終わりがなくても、その本に少しでも触れたことがその後の生活に影響する、そういう断片的な関係の在り方、そのことに充分の価値があることに、ようやく気づいてきた。


「君はここの本を、一生のうちに読み終わらないと思うよ」

 O氏は本棚を漁りながら、こんなようなことを言った。全くその通りである。もしも、無限の本への絶望を今なお抱えていたとしたら、俺は図書館に行くまでもなく、この部屋で毎日絶望をすることができていたわけだ。
 ところで、どうしてこんな量の本があるのか。別の記憶をたどる必要がある。


2.本の増殖、その歴史

 西ベルリンという都市は、いかにしてその形を保っていたのか。

 家の中に俺の部屋がある。至極当然のことだったが、俺にはこれが苦しかった。部屋を出たら親に会う可能性がある、そのことが、俺の生活をいつも窮屈にしていた。
 自宅で浪人していた頃、朝になると、母が俺の部屋のカーテンを開けに来た。なかなか起きないことにしびれを切らして、日光を浴びせて俺を起こそうという作戦だった。強制的に浴びせられる日光、同時に、無防備な部屋への容赦なき侵犯、その記憶……
 大学に入ってから、親は全く部屋に入らなくなった。そのことがいくらか救いだったが、それでもやはり、常にその可能性がチラつき、足音が近くを通るたびに身構えていた。

 大学2年ぐらいからだったか、地元の飲食店でのアルバイトに多くの時間と精神を割いていた。同じころ、池袋のジュンク堂の存在を知った。
 身を粉々にして働いた給料の多くを、本の入手に費やした。初めは課題に使うための本だったのが、どこかで聞いた本、なんとなく興味がある本、手元にあるといい感じの本、と、レジに持っていく本の数は増えていった。

 自分の部屋は、もとは姉の部屋だった。姉が家を出ていってからは、二段ベッドと、お下がりのような本棚が一つ残されていた。
 その本棚は、わずかに持っていた本のほかには、卒業アルバムや小物などをたくさん入れていた。それが、本をたくさん買うようになると、本以外のものを全て外に出し、正しく本棚として使うようになっていった。ついには埋め尽くし、無理やり奥と手前とで二列分を詰め込んだ。それでも溢れていき、机の端に積み上げ、二段ベッドの寝ない方の段にも積み上げ、部屋は本で溢れかえっていく。

 紛れもなく、俺を守る壁だった。読まれることではなく、在ることによって、物理的な、同時に精神的な、壁となっていった。部屋は狭苦しくなっていったが、そのことが俺を安心させた。

 家にいるままでは、本がどこまでも増えていく。いよいよ本を把握しきれなくなっていき、空間を埋め尽くしていった、このままでは身動きがとれないと思ってきた頃、母が、一人暮らしをするんなら、あの本は全部持って行ってねと、迷惑そうに言った。家を出るとしたら本はいくらか部屋に残していくことになるかも、と甘い考えを持っていた俺は、意地でもこの本たちを手元に置いておかなければならないと強く決意し、それが叶うだけの広さを持つ部屋を探し、不動産屋へと向かった。そこからは早かった。候補に挙げていた2つの部屋を内見したのち、その日のうちに、広い方の部屋を契約した。LINEの家族グループで、1か月後に家を出るから、と伝えた。


3.家の構成、本棚の変遷

 今の家には、大きく3つの部屋がある。玄関とキッチンがある部屋、その次に洋室、最後に和室がある。1つ目の部屋で食事・風呂・仕事など大半の生活を行い、3つ目の部屋は主に寝室として使っている。本が置いてあるのは、2つ目の部屋である。

 2月半ばに行なわれた引っ越しは、善良な同僚たちの手伝いによってスムーズに進んだ。結局あの本たちは、段ボールで20箱ほどだっただろうか。ひとまず2つ目の部屋にすべて運び入れ、段ボールに入れたまましばらく過ごした。
 数週間経ってからだったか、段ボールを本棚みたいにしてみようと思い立ち、本の入れ方を変えて段ボールを横向きにし、その段ボールを部屋にずらりと並べた。ひとまず体裁は整ったように見えたが、遊びに来た友人に、貧乏っぽすぎると笑われ、俺も笑った。確かに段ボールでは様にならないので、本棚を買うことにした。そのためにひとまず、段ボールから全ての本を取り出し、すべてを山積みにした。
 4月に入って、文庫本を入れることができるスライド式本棚を買った。これで、新書と文庫をほとんどすべて収めることができた。他の本はまだ、山積みのままだった。
 5月だったか、大きい本を入れるための本棚を探しにIKEAに出かけた。めぼしいものはあったが、買うのが面倒なのとお金に余裕がないのとで、しばらくそのままにしていた。7月半ばぐらいか、本を床に置いておくのは風水的によくないみたいな話を誰かにされた。風水を気にする質ではないのだけど、まぁたしかになんとなく良くない感じはするよなと思い、買うことにした。
 ようやく買ったのは7月の末だった。本棚が届く日に、ちょうど人と会う用事があって、組み立てを手伝ってもらった。なかなか狙い通りのいい本棚で、しかしまだすべては入りきらず、同じものがあと2つあればすべて収まるかな、というところで、今は止まっている。

 大きめの本が入っている本棚がひとつ、文庫や新書が入っている本棚がひとつ、そして、平積みの本が12山ほど、これが部屋の現状である。


「この本棚からは、君のコンプレックスを感じる。」

 俺が別の部屋で煙草を吸っているとき、S氏は本棚を眺めながらこう言っていたのを聞いた。やはり彼は、伊達に俺を見てきてはいないらしい。なんでわかった、と思わず口走った。かねがね思っていたことだった。


4.堆積する、コンプレックス

 真っ只中にあるコンプレックスを、言葉にすることはほとんど不可能に近い。コンプレックスがある程度その手を緩めたとき、ようやく人は、取り乱すことなく言葉にすることができる。

 ひとつ、明確に自覚していることがある。受験に対する、あるいは勉強に対するコンプレックスがあるということだ。
 小学生のとき、中学受験をした。仲のいい同級生がしていた中学受験の勉強というのがとても面白そうで、親に打診し、小5の終わりから塾に通った。
 勉強はひとつの娯楽だった。よく分からない文章を読んで、よく分からない問題を解くのがただただ楽しかった。だから、特に力を入れて机に張り付いていたという記憶はない。それで、中高一貫の学校に合格した。
 入学して最初の担任は、数学の教員だった。学級文庫に微積の本があって、なんとなくそれを手に取った。数学に詳しいわけでもなかったから、よく分からないままなんとなく読んでいた。その本についてクラスの人間と話しているときに、君は因数分解も知らないのにそんな本を読んでいるのかと言われ、その些細な指摘が、俺を机に向かわせる、といったことはなく、何か小さな、それでいて決定的な、挫折となった。
 思えば、人より進んだ勉強をしているという感触が、気持ちよかっただけだったのかもしれない。だから、その程度の指摘で、自分よりも詳しい人がいると知っただけで、俺はその快楽を見失い、力が抜けた。
 中高一貫の学校だったから、高校受験は経験しなかった。中学のうちは多少の勉強をしていたが、順位はどんどん落ちていく、そのことで親と揉め、一瞬だけ塾に行ったがそれもすぐ止めさせられ、惰性で6年間を過ごした。どこからか、何も分からなくなっていた。知に埋まっている何かの価値を感じてはいた、それだけだった、その価値を享受することはとうとうなかった。
 大学受験など上手くいくはずもなく、浪人をすることになった。ただでさえ学校が苦しかったから、わざわざ予備校に行くことを選ぶことはできず、自宅で浪人をした。現役では理系だったのを、文系に変えた。2回とも筑波大学を第一志望にしていた。熟慮の末ではなかった、姉が通っていた高校に筑波の名前が冠してあって慣れ親しんでいたこと、家を出る口実となる絶妙な位置にあること、この2点が決め手だった。
 勝手の分からない勉強を家でしていたわけだから、何かを掴めることはなく、どうにか受かった別の大学に、流れつくように入学した。

 本当に恥ずかしい話なのだけれど、勉強に「記憶する」という作業が必要なことを、最近まで知らなかった。考えれば何とかなるものだと思っていた。考えるためには、記憶が、身体に堆積した知識が必要なことを、俺は長いこと知らずに過ごしてきた。

 大学に入ってからは、真面目に勉強しようと思い始めていた。この頃から、コンプレックスは形を得て、行動へと繋がり始めた。それが明確に実ることはなかった、ように思う。
 考えることは好きだったから、本を読んでレポートを書くとか、そういうことは楽しくやっていた。でも、勉強に記憶が必要なことを分かっていない人間がする「考える」など、たかが知れていた。

 何かを知りたいと思ったとき、中学と高校の、してこなかった勉強の分の負債が、いつも追いかけてくる。あのときやっていたら、この本はすんなり読めたんじゃないか、もっと深いところまで理解できたんじゃないか、と、どこまでも付きまとってくる。
 青チャートが、社会や理科のあらゆる分野の参考書が、浪人中にやりかけてやり終えることができなかった古文のテキストが、あの部屋にはある。そのすべては、驚くべきことに、この数年で買ったものである、大学3年とか4年とか、受験を終えて数年が経ってから買ったものである。

 本を読む、研究の真似事をする、そのときにいつも、たどり着けたかもしれない理解との偏差を感じ続ける。その偏差を埋めるために、参考書を買う、現代文で、倫理で、世界史で、紹介されていた(かもしれない)本を買う。
 その差分が本当にあるとして、言うまでもなく、本を買うことで埋まるものではない。その穴は本当に膨大で、少し読むくらいでは到底埋まるものではない。

 埋まらない過去の負債がどこまでも付きまとう、埋まるはずのない穴を、本を買うことで埋めようとしていた、埋めたことにしようとしていた時期があった。あの部屋の多くは、そのコンプレックスによって構成されている。このことに直接に関係のない本であっても、その無意識によって手を伸ばした本は数知れない、のではないか。


……

 久々に会った友人に、昔の後悔が他のものによって埋められることはないと、はっきりと言われた。
 代替物などない。この穴は、穴として、死ぬまで残る。できることは、穴の位置を知ること、飼いならすこと、これだけだ。

 これを書いている日、友人の車で筑波に行き、ふらふらと散歩をした。浪人中に何度か訪れたことを思い出し、苦しかったことも同時に思い出した。何かの間違いで入学できていたら、これほどコンプレックスを肥大化させることもなかったし、これほど熟成された親への嫌悪を動力源として何かを書くということもなかった。結果的によかったと、今では思っている。そう思うしかない、とも言える。

 大学院に行くことを検討していることも、ひとつの対処なのかもしれない。負債を抱えたまま、おちおち働いてもいられない、新たな負債を増やさないようにしながら、今ある負債を返す、ことに、しばらくの時間を費やしていきそうだ。

……

 コンプレックスに手を伸ばしたときに現れる、独特の文体がある。この文体を自分でとても気に入っていて、そのことが、埋まらない穴を飼いならすひとつの手段のように感じる。
 その文体は、読んだことあったり、読んだことがなかったりするあらゆる本に因るものなのだと、そういう仕方で、ようやくコンプレックスは、自分の手中に収まり始めているんじゃないかと思う。


「君の中での本の重要性が、少しでも下がったらいい」

 読むためではない形での、本の重要性の話だというのが、この言葉の一解釈である。このうち、対親の壁としての役割は、一人暮らしを始めたことによって全く解消されている。コンプレックスとしての重要性は……本で何かを埋めようとすること、埋めるために本を買うということは、一時的な対処としては否定すべくもないが、健康的とも言い難い。この点での重要性も、コンプレックスの自覚によっていくらか解消されてきている。

 上の台詞を言い放つS氏は、最近になって本をよく読むようになったと言っていた。彼は、本を読むことの価値を感じつつあるなかで、しかし、本に対して価値を置きすぎている現状への批判をした。まったく的確な批判である。この言葉は、本に対する関わり方に限らない、俺が結んできたあらゆる関係の在り方に対する批判と取ることすらできる。


5.重要である、ゆえに距離を取る

 大切なものを、大切に思いすぎてしまって、うまく大切にできなくなることがある。ことがある、なんて頻度ではない、ごく頻繁に起こる。
 傾倒、嗜癖、盲目、これらが関係性を特徴づける言葉だった。とりわけ交際関係ではそれがひどくて、だから上手くいかないことが多かった。

 頻繁に話すようになる、気付いたら一緒にいる時間が多くなる、そのまま交際へと突入する。
 交際としての関係が始まってからの悪癖は、大きく2つある。
 ひとつは、すべてを把握しようとすることである。ある種の潔癖なのだろうか、生活のあらゆる側面を知り、理解しようとする、なんとおこがましい振舞いか。生活とはいつも多元的なものである、そのすべてを把握することが、その人を知り、一緒にいるということだと思っていた。その人自身になり切ろうと、あるいはせめて追体験をしようとしていたのかもしれない、そこには同一化への欲望があった。
 もうひとつは、交際に至らなくても起こることなのだが、その人の中に、自分の見たい像を見出すことである。自分が見たい理想の姿を、その人の中に見出そうとする。ただの好意であれば、それは愚かな恋愛として終わるものが、交際となると、その像と実際との偏差をどこかで感じ始め、上手くいかなくなっていく。すべてを把握しようとするのだからなおさら、その偏差は必然的に大きくなっていく。
 以前、タブッキの『遠い水平線』という作品が、ある種の自分探しを描いたものであるということを書いた。主人公が、身元の分からない遺体ノーボディの過去を追う中で、自分を見出していく。この作品のポイントは、主人公が自分を見出すための媒体が、遺体であったことである。既に死んでいることで、その遺体は、彼が己を見出す媒体となり得たわけだ。それが生きていたとしたら、見出そうとする己の姿と、その媒体自身の生との間に、必ず軋轢が生れる、場合によっては暴力となる。俺がしていたのは、つまりそういうことだった。
 そして、上の二つが至るのは、明確な失望である。当然のことだ。自分が見出そうとする像が、すべてを把握してなお保たれるわけがない。交際関係はいつも、破綻が約束されているシステムであった。最終的には、把握することをやめ、関心をなくし、しかし体裁だけは保ち、どこかでふっと糸が切れたように別れる、この繰り返しだった。

 大学のゼミ内で論文の構想を発表したとき、担当の教員に、「あなたの論文では、他者が他者として現れていない」と指摘されたことがあった。他者に対して、すべてを把握し、理想化し、同一化しようとすることに対する、あまりにも的確な、俺自身への批判だった。

 俺にとってその人が重要だと感じると、いつもこの2つに至る。その傾向を自覚したとき、ひどく落ち込んだ。
 重要だと感じることがいつもこの帰結に至ると知り、同時に、対処も明らかになる。必要なのは、「重要だと思い過ぎないこと」であった。周縁に対するフラットで円滑な関係性がある、重要なものに対してもそのようにすればよい、これが、ほとんど唯一の対処であった。同一化への欲望のパターンから抜け出したとき、ようやく、大事なものを大事にすることができる。事実として重要だと考えながら、感情としては重要性を意識しない、真正面からは外すという、距離の取り方を覚えていった。

 本に対しては、どうだろうか。

 すべてを把握しようという傾向は、明らかにあった。手に取った本は、完全に理解しなければならないと思っていた。その心意気が悪いとは思わないし、それができるのならするに越したことはないが、初めからそれを目指して上手くいくものではない。
 自分が見たい像を見出す、とは少しズレるが、自分が得たいものを得ようとする、という本の読み方はしてきた。あるいは明確な狙いはなくても、何かしらを得ようとすることはある。が、何も分からず、何を見出すこともできないことが多かった。
 問題なのは、完全な理解が難しいことが分かったときの、失望である。見出せない、把握できない、と、読むことを諦める、そして、別れ、のように棚に戻す。
 重要性ゆえに、である。

 本との関わりでの解決策としては、2つほど思い浮かぶ回答がある。
 ひとつは、重要性を低めることである、これはたしかに、本との関係を安定させる。重要性が高いことで、期待と欲求→失望→別れという一連に陥るのだとしたら、期待がそもそも低いことは、その流れに飲み込まれることを防ぐであろう。人文学に片足を突っ込んでいる身としては、文献が重要であることなど言うまでもない。その前提があるからこそ、残ったもう片足では、あえて重要ではないというポーズを取ることが、むしろ本との関係を長続きさせるように思える。『資本論』は寝転がりながら読むのがちょうどいい、という言葉をどこかで見たことがある、つまりはそういうことだ。
 もうひとつ、本との関わりは、むしろ『遠い水平線』においてなされていたようなつながりでいいのではないか、ということ。書かれた言葉は、その時点で遺体となる。死んでいるというよりは、それ以上は自発的に語らないのだということだ。遺体と同様に、一定の物語を有していながら、その物語は既に完了しており、その先はすべてこちらに委ねられている、ゆえにこれを通して自分を見出すことが許されている、というわけだ。

 すべてを把握しようという欲求をいつも完遂する必要はないということ、文献の重要性にあえて真正面から向き合わないことで関わりを保つということ、書かれたことの制約の中であれば、ノーボディを媒介とした像の投影を試みてもいいということ。

 大切であれば、大切であることにすべてを注ぐことなく、大切にすればよい。他者が他者として現れ、他を他として大切にすること、そのために距離を取るということが、ここに来てようやく分かってきた。

 同時にこれは、自分の輪郭を顕わにすることを意味する。


「君はこの部屋の本と、和解したほうがいい」

 S氏とO氏をそれぞれ家の方面へと見送っていき、3時ごろ家に帰った。翌日は一日予定がなかったので、部屋にこもって、本を漁った。

 和解という言葉があまりにも腑に落ちたのは、たしかに和解が必要だからだ、和解が必要だということは、何らかの軋轢があるということだ、俺と、本との間に。

 責め立てられている気がする、というのが率直なところだ。大事なことは全て我らの中にあると、それを享受しないお前は無知で愚かな人間であると、そう言われている気がしてならない。
 必要な本だけを手に取って、あとはそのままにして、山積みになった本に目を向けないようにしていた時期があった、つい最近までそうだった。
 少しずつ読んで、それを記録していた時期もあった。長くは続かなかった。今ある本の全てに対して行うには、あまりに途方もない作業だった。

 責め立てられている。書かれていることを読まなければ、書かなければ、記録に残さなければ……
 果たして、本当にそうなのか。


6.書かれた歴史、流れ出す記憶

 日記を毎日書いていた時期がある。地獄のような日々、保健室によく顔を出していた高校生活後半のことだった。

 高校が、勉強が、つらかった。付き合っていた彼女ともずっと薄っすらとギスギスしていた。当然ながら、親とも上手くいっていなかった。そのすべてが記された日記が、ある。毎日毎日、呪詛のように、事細かに記されているのである。
 中高の友人で、高校時代の記憶が「レコードに傷がついたように」飛んでいるという人がいた、何人かいた。思い出そうとすると、ノイズが走る、映像は乱れる、と。俺にそのようなことが起きないのは、おそらくは、そのすべてを日記という外部メモリーに保存していたからであろう。それが良いことだと、手放しに言うことは、できない。
 高校を卒業してしばらく経ってから、あの時のことを振り返ろうと思ったときに、これは非常に役に立った。過去自体というものがあるのだとしたら、それが変わることはないが、それに対する解釈を変えることはいくらでも可能である、そして解釈が変わったとき、過去はそれ自体が変容したかのように形を変える、それはあるいは、過去自体が変わったのだと言ってしまっても差し支えないのかもしれない。豊富な資料としての日記は、解釈のための材料を取り揃えていた。
 一方で、当時は明確な弊害があった。彼女と揉めたことの記録がいつまでも残る、そのうえに都合が悪いのは、それが5年日記なるものだったことである。1年前の同じ日の記録がすぐ上にあるから、記念日のように、それでいてロマンの欠片もない形で、感情が毎年毎年ご丁寧に再生産されていく。戦争や犯罪の記録であれば、それが資料として残っていることの重要性は確かにある、が、個人の生活の揉め事ともなれば、不都合の方が遥かに多い。
 記録の癖は、ある種の潔癖に起因するものだったと思う、上にも記した通りである。人と上手く付き合っていくには、覚えていくのと同じくらい、忘れていくことが大事だった。

いつ
 どこで
  だれが
   なにをした

最近のある日の日記より

 全てを記すこと、に対する、究極の反定立である。

 最近になって、日記を書く習慣がぱったりとなくなった。理由はいくつも考えられる。
 まずは、単に面倒になったというのがある。書く気が失せた。ある時期までは、溜めた日記を2週間分くらいまとめて書くなどして、全ての日を必死になって埋めていたのが、それもしなくなっていった。その結果至ったのが、上の日記である。
 すべてを記録する必要がない、というのは、潔癖に対する反省によって至ったひとつの結論である。何もかもを把握していればいいというものでもない、むしろ不都合の方が多い。このことが、日記を書く手を止めさせた。
 あるいは、必要がなくなったというのもある。つまり、レコードに傷がつく心配があまりなくなって、外部メモリーの必要性がなくなった。あるいは、レコードを信頼できるようになってきた、とも言えるかもしれない。

 全てのことを覚えておくのはできない。それが何か、自分の人生を取りこぼすことになるのではないかと、恐れていた。しかし、忘れることも、ひとつの記憶である。忘れていたことをふと思い出すのも、ひとつの記憶である。その記憶とは、非常に自然なものである。
 その記憶は、身体に残る。彼らの傷ついたレコードとは、端的に彼らの身体であった。俺が信頼せずにいて、それ故に記録を残していた理由もまた、俺の身体であった。多少の傷は付いても、自然な記憶を残す身体のことを、もう少し、信じてみてもいいのかもしれないと思った。

 覚えていて、忘れていて、思い出す、時間は行き来し、人生は行きつ戻りつ経過する、いつ、どこで、だれが、なにをした、その透明な箱には、出来事や、出来事未満が、入り、溢れ、あるいは通り抜け……


「本は私のもとにある」

 ロシア語で「持っている」にあたる表現は、次のようになっている。

У  меня  есть  [名詞]
私は[名詞]を持っている

ロシア語の所有表現、「ウ ミニャー イェスチ」と読む

Уは「-のもとに」を表す前置詞
меняは「私」が上の前置詞と結合するために変化した形(生格)
естьは「ある」を示す動詞

 よって、直訳すると「私のもとに[名詞]がある」となるものが、「私は[名詞]を所有している」ことを表している。
 ロシア語を勉強したとき、この所有の表現のことをとても好きになった。I have …とは全く異なるラフな所有の感覚、所有の権利を主張するのでなく、ただ単に近くにあるのだと、当人のもとにあるのだという、所有……

 先ほど挙げた記憶、つまり、身体に残り、思い出したり忘れたりするような記憶は、このイメージに近い。日記に書くことで保存されていた記憶が、I have 的な、手でがっちりと掴んでいるような所有をしていたのに対して、日記から手を放し、身体への信頼のもとで、自ずと残されている記憶は、掴んでこそいないけれど、確かに自分の記憶であって、自分のものである、その意味で、У  меня  есть的な所有である。
 つまりは手許にあるということだ。手が届くとも限らない、しかし、何かの可能性として手許にはある、自分の思い通りになるとも限らない、しかし、自分のものではある、手から離れながらも、いつも自分の手にある、そういう、緩やかな所有である。

 なんとも、心地が良い。

 さて、上の表現に、本の複数形「книги」(クニーギ)を当てはめてみよう。

У  меня  есть книги.
私は本を持っている。

例文として、あるいは、所有の在り方として

 これにて、本との和解は為されたものとする。

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