一夜七夜




ある夜のことでございました。薄い雲が月に懸かり、ぼんやりと細い影を落とし、しんと静まった冷たい指が、心の臓を撫でるような、夜でございます。あたりにたちこめるぬばたまの闇は、足音さえも、呑み込んでゆくようで、あとから、あとから、とめどなくあふれては、どこへともなく、流れてゆくのでした。
幾重にもたちわたる霧が、そらをふさいで、おにかみも、息をひそめるころあいでございます。人けの絶えた三条の大路を、ひたり ひたりと、供ひとりさえ連れず、歩くものがおりました。艶やかな黒髪に月影をうつしとり、儚げな様子の女がひとり、微かに、衣擦れの音を従えて、歩いてゆくのでした。檜皮の単は夜闇をうつしているかのよう、頬に落ちかかる髪は、はてしない夜にも似て、うつくしくも、おそろしくみえるのでした。
女が、六角堂のわたりに差し掛かったとき、わずかに雲間から見えていた月も翳り、あたりに、いっそうくらい 闇が、ひろがります。同時にひた と、足音が消え、それきりあたりには、寂然とした沈黙の名残だけが、重く、わだかまっていたのでした。





ある夜のことでございました。軒をならべる家々はかどをとざして、宿直のあかりはこずえのかげに紛れ、堀川にわたる霧は玉かぎり、橋のたもとが、いよよほのかにみえる、夜でございます。とうに月の沈んだそらは、まなこを、ひらいているのかいないのか、地に足が、ついているのかいないのか、曖昧に、わからなくなってゆくようで、おのれの輪郭さえ、消えかけているのでした。水の流れる音が、ことざまに耳の奥をふるわせて、ともすれば、くらくつめたい水底へと、引き込まれてしまうように思われるのでした。
一条の戻り橋のたもとに、さしかかったころのことでございます。どこから、ということもなく、耳慣れぬおとが、夜のあいまをぬって、とよもしておりました。きけば、ほそく、たかい笛の音が、ふれれば切れるように、澄んだ音を奏でているのでした。そこで、この笛を吹くはたぞ、と、橋の上へ、目をやったのでございます。
そこは、いちめんのくらやみでございました。わずかに、仄あおいあかりが漂い、ちいさな人かげを、ゆらり、ゆらりと、浮かび上がらせているのでした。こちらに背を向けたながい髪は風にゆれて、流れるように地に落ちておりました。衣の裾を重くひき垂れ、赤の袴を身にまとう、女の姿でございます。それが笛をもち、外つ国のしらべをかなでているのでした。ほそく、たかい笛の音が、鋭利にとぎすまされた笛の音が、おそろしいほどにうつくしきしらべを奏でておりました。やがて、川からたちのぼる霧がいっそう深まるころ、笛の音は水面に吸い込まれてゆくように、ひっそりと絶えていたのでございます。それきり、あたりはしずけさと、くらく、遠い夜におしつつまれてゆくのでした。




ある夜のことでございました。ひっそりと静まりかえった木々のかげが、時おりの夜風にささめき、くらく深い森には、月明かりさえふみ入ることをためらうような、夜でございます。みやこから離れた山の道には人のけはひなどあろうはずもなく、ただ、草木の息をひそめるような空気が、あたりをみたしているのでした。
月のかげが山の端にかかり、いちだんと、あたりをくらくしたころのことでございます。木々のあわいから、ひとつ、ふたつと、ゆれる灯りがありました。やがて数を増したそれは、ほそく、長い列をなし、いただきへと進んでゆくようでした。ほとんど夜と同じ色へと染まった木立は、青白いあかりを隠しては灯し、灯しては隠しているのでした。長い間それをながめていると、あかりのひとつひとつは、人影らしきものが、後ろへついていることに思いいたります。くろく沈んだひとの影が、音もなく、音もなく、あかりを掲げて歩いてゆくのでした。そうして、しばらく、揺れるあかりの流れるさまを見ておりましたが、やがて、川の流れが絶えるように、静かにあかりのすじは絶えてゆきました。あとには眠る草木と、月の落ちた夜の空、ぬりこめるようなくらやみが、ただ、そこにございました。
――月かげの残滓と、ほのかな青のあいまにみた、先頭で、ひときわゆらぐあかりを手にしていたものは、くろい髪をつややかに長くたらした、女のさまをしておりました。




ある夜のことでございました。月のかげが白じらとわたのおもてに照りかかやき、ささなみは黒ぐろとして潮騒をたたえ、幾度も、幾度も寄せてはかえす夜でございます。はるか遠方の波間に、ちら、ちら、と、浮かんでは消え、消えては浮かぶものがありました。つりびとたちの灯すいさり火が、ほのかにあかく、水面を映しているのでした。
波の音が静けさをみたしているうちに、輪郭の端々から、くらく、深いわたのそこへと沈んでゆくように思われるころのことでございます。波のささめきにまぎれて、耳なれぬ音がきこえてくるのでした。
いいえ、それは、うたでございました。幾度もくりかえし、おなじうたを、おなじこえで、幾度も、幾度も、詠じているのでございます。

向南山にたなびく雲の青雲の星はなれゆき月をはなれて

ほそい女の声でございました。今にかき消えようとする、ほそく、はかない声でございます。ふるえる息をながくして、はるか、いにしえに弔ううたを、うたうのでござきます。
いっそう深まった夜のころ、音もなく霧はたちわたり、いさり火を覆ってゆきました。みなもの火が見えなくなるにつれて、うたう声も、霧の底へと消え、しろい夜がくりかえし打ち寄せるおとが、遠く、響いておりました。




ある夜のことでございました。陽の落ちかかる薄暮れに、あたりをしろく染めながら、春の霞のながれるごと、小雨の降る、宵の浅瀬でございます。ほそい道のはるかおきつかた、色を失う草ぐさのさきには、きざはしの落ちかかる、堂がひとつ、ございました。閑けさにおしつつまれて、なげきさえも呑むように、佇んでいるのでした。とうに人のおとないの絶えた庭からは、いずれ朽ちては消えてゆく、世のならいを知るのでございます。
やがて、薄墨に溶かしたような夜が、あたりに降りるころのことでございます。いっそう暗がりに淀む風景のなか、ひた、ひた、と、道のさきより歩むものがおりました。檜皮の単を身にまとい、黒髪を長くながした女でございます。濡れ羽の色に似た、あてなく、おとがいにかかる髪に隠されて、女のさまを、うかがうことはできないのでした。手に持つ檜扇はそぼふる雨に濡れ、たいそうわびしくうつるのでございます。やがて女は衣擦れの音も密やかに、きざはしのあたりへと歩を進め、立ち止まっては遠く空を仰いでいるのでございました。頬をつたう雨露は水晶をかざしたように、透明な光を帯びておりました。やがて雫は地に落ち、宵のやみがおしよせるにつれて、女の輪郭は霧かかるように消えてゆくのでございました。




ある夜のことでございました。宴の松原にほど近いあたりに、松の木があるのを、風が吹きとおるたび、こずえをかすかに揺らしてゆく夜でございます。東のかたに、ことざまにおおきく、赤い月が、うすいかげをつくり、足音ひとつ、衣擦れの音ひとつたてることさえ、ためらわれるようすでございました。むくつけく、底の知れない夜でございます。
月の舟がそらのいただきへと梶をとりはじめたころのことでございました。闇の奥から、ほと、ほと、と、なにものかが歩み寄る音がするのでございます。姿は見えず、ただ、足音のみがちいさく、いづこかへ向かうのでございます。またあるときは、松の木のうしろから、白いかいなが、ゆらり、と、手まねくように揺れるのを見たのでございます。いつからそこにあった、ということもなく、見た、と思ったときには、意識のおもてへと、すべり出でていたのでございました。ほそいかいなでございます。それが、ほのか、月のかげをあつめるように、しろく浮かびあがって見え、くりかえしあてもなく、漂わせているのでございます。誰かを呼んでいるのでございましょう。やわらかなおよびからは、そのかいなは女のものと知れるのでした。やがて時がたつと、ほのかな声で「あくといへば」などと詠みかけて、かいなは、掻き消すようになくなったのでございました。

あくといへばしづ心なき春の夜の夢とは君をよるのみは見む




ある夜のことでございます。わたくしは、ひとり、あかつきの野辺に立ち、ほのかに色をおびはじめた山際をながめているのでございます。衣の裾は露にぬれ、あざやかな紅を、おもく滴らせるのでございます。やがてひるになって草葉の露が消えてゆくように、わたくしもまた、明けの光に薄れゆくことは、とうにわかっていたことなのでございます。袖をぬらして夜を恋うたとして、あけぼのの空のうつくしいことを、わたくしは知っているのでございます。
そうであれば、わたくしは、せめて弔いの舞を舞いましょう。鎮めの歌をうたいましょう。これまでに絶えた、名もなき草々へ、思いを寄せてうたいましょう。
水鏡にうつるはなつかしき姿、あないとし、いとしのときよ、松風のおと、芭蕉葉のささめく、ぬなとももゆらに、ほのぼのと消える夜。褪せた花の香りは残り、明くればやがて、夢覚めるまで。やがて夢覚め、夜が明けるまで。

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