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死にたくなったら・・


お経と言えば「般若心経」くらい
お経界ではメジャー(おきょうかい?w)ですね

世情的にあんまりよろしくないコトが続いたり
先の見えない不安な時代

周囲に
影響されやすい人は落ち込みがちなので
是非お経を読みましょう(極論)

今の世の中の状況が不安じゃない人なんて
居ないと思うのです。

自分ではなにがどうしてもどうしようもなくなったら
お経を読みましょう(真顔)

ワタクシはどうしようもなくなると
すぐ「死にたい」とか言い出す陰キャなんですが

こんなふうにうっかり言ってしまったり
思ったりしてしまう人には
是非とも覚えておいていただきたいことがあります

「死 にたい」は
「し あわせ に 生き たい」
「幸せに生きたい」という魂の略語
今より幸せに生きたい、という魂の本音です

「死にたい」が出てきたら
自分でアレコレ考えずに
とにかく神頼み一択です(真顔)

まずは
「お経」を聞く、読む、書くを検討しましょう。

「念仏を唱えていれば神風が吹く」
そんな能天気な事を言う気はありませんが

日本人の脳の動き方を考えてみても
「読経がBGM」というのは心を整えるのに
とても良い行動の一つです。

今回は「般若心経」を載せてありますので
是非つぶやいてくださいね

わたしという人間は
何か一つ上手くいかないが出てしまうと
なし崩しにあれもこれも全部「ダメ」な気分になって
どんどん落ち込んでしまうという、パターンを持っています。

自分はなんてモノゴトを知らない人間なんだろう
そもそも人生誰かの役に立ってるんだろうか??
いっそのこと消えてしまいたい。

ここで息子に「お母さんのご飯不味い」とか言われると
存在そのものを否定されたような気がして
もう死んじゃいたい><とか言い出します(苦笑)

え?なし崩しに落ち込まない?
それはすてきなことですね^^
500字くらい飛ばして「般若心経」だけ読んでくださいw

何かが 上手くいっていない時。

何か物事がうまく回らない時

私たちの心は閉ざされているんです。
小さな深い井戸の中に落ちているような感覚

今だと
先の見えない不安や
未来への恐れからくる自己否定
家族からの遠慮のない言葉や態度

ついうっかり涙が出てしまう
そんなこともあるかもしれません。

井戸の中で見えているその世界は
不安・不足・不満・不信という「マイナス」の世界です

井戸の奥深くに沈んでいるときは
人からのアドバイスに耳を傾けたり
優しい言葉かけすらも
馬鹿にされているように感じてしまう。

だからこその
深く考えずに「神頼み行動」がオススメです


お経を読むことは

お経を読むことを読経といいます。

慣れていないうちは教本を読むんですが
寝る前とかに読経しようとすると
いつの間にか眠っていたりして・・・

寝る前に良いことを思い描くと良い
という点で、まさに一石二鳥です。

それは読めていないのでは?
そうゆうツッコミは置いといてwww

読経の他にも
真言を繰り返し唱える
マントラを繰り返し唱える
祝詞を唱える
なんかも良いですね。

はるか昔々から
この時代まで残っているものには
必ず意味があります。

たくさんの「救われた想念」や
「祈り」の力を秘めているのです。

わたし達の理解の及ばない何かに作用するチカラ。

意味なんて知らなくても考えなくても
「唱えればOK」というのは本当です(真顔)

職業として「僧侶」や「神職」につかない限り
お経や祝詞の深い意味は気にしなくても良いし

本職になるわけでないのなら覚えなくても良い
とにかく「発すること」が大事になります


日本人の脳的に

わたし達日本人の脳は
独特な「音の処理能力」を持っています

西洋人・・日本語を使わない人々の脳・・とは
左右の脳の連携や「音の認知」に違いがあるんです。

「音楽」と「人の声」を処理する部位が
西洋人とは完全に違っているという研究結果がでています。

これがいわゆる
「虫の声を聞く日本語脳」というヤツですね。

日本語を「母国語として使用」している人と
古代ポリネシア語、チベットの方言を使用している人にしか
当てはまらないマイナーな「脳仕様」です。

ですので、
ある程度長く意味不明でハーモニーのような人語は
日本人の脳細胞を大変刺激してくれます。

ほらほらお経なんてぴったりなのよ。

祓い祝詞などよく聞く祝詞は
うっかり「意味」や「情景」を考えちゃうので
意味不明な方が良いですね

そして
マントラや真言が好きなのであれば
これらは短いので繰り返すのがオススメです。


お経は祈りの一種

お経は「祈り」であり
見えない世界への依頼書のようなもの

「幸せ」になるのに順番があるように
「祈り」にも実は順番があります

「幸せになっていく」順番としては
一番目は「自分」です。

まず、自分が幸せになることが一番先。
自分が幸せで満たされていることが
一番最初にきます。

二番目が「パートナー」や「家族」
そこから外へ広がっていきます。

地域→社会→国→世界→宇宙
一周回って全体である自分に戻ってきます。

祈りはこの逆の方が効く

宇宙から始まり、
世界平和を祈り
国の幸せを願い
属する社会の幸せを願い
パートナーや家族の幸せを願い
最後に自分の幸せを願う。

そして
一周回って大いなる宇宙へ戻ります

わたしがお経を声に出して読むことには
「両方の巡り」
「幸せ」と「祈り」の両方の効果があります。

「自分と大いなるもの」とをつなげる行為
大いなるものへの畏怖
見えない存在への感謝

誰かに読み聞かせるというものではなく
まず、自分が受け取るもの。
けれども「大いなるもの」へと「平和を祈る」もの

仏壇や亡くなった人、お葬式の日に
ご先祖様や故人に向けて唱える。
それもありますが
そればかりではもったいない。

「幸せ」や「平穏」を「祈り」として
「一心に願うツール」として

見えない世界とのつながりとして

日常にもっともっと使っても良いと
わたしは思っています。

いつもの極論ですが
「日本人」が
「お経」を
「声に出して読む」だけで
自分の平和も
世界平和も祈れと思うとステキでしょ^^

騙されたと思って是非読んでみてください。


わたしがお経を読む理由

(新興宗教時代は除いてww)

2019年の7月以降なのでそろそろ5年です。
一昨年娘がうっかり「可笑しな鬱」化しました。

わたし自身も19歳と34歳の2回鬱ってるんですが
それとはどうも様子が違う。

あきらかに「変」
もともとわたしの母も「妖怪狐憑き」と呼ぶくらい
わかりやすく「憑いてる人」でしたし・・・

まさかの娘も憑いてしまったのか!?

そんな娘を心配してお友達が紹介してくれた
心理療法家でもある京都のお坊様の
グループセッションに参加しました

そうしたら奥様(って誰やねんww)
そりゃあ、もう大変よwww

詳細ははぶきますが
見知らぬ浮遊霊が庭の廃屋を休憩所にしていたりww
鎌倉時代の怨霊が出てきたり・・・

しかも
それらが娘と母に関連して影響しているという。
けれど
わたしはカケラも影響をうけていなくて
退治する役目という
よくわからない状況です。

その場で
浮遊霊は撃退し、
怨霊は説得したのですが

当時の娘の状況を考えるに
入院や投薬以外に
わたしが出来ることはないのか!?

そこで思い至ったのが
「そうだ!お経を読もう!」だったわけです。

なんでお経?と思われるかもしれませんが
人は自分の理解をはるかに超えて
自分の力量もはるかに超えた
意味不明で奇怪な出来事に遭遇すると
神仏にすがる以外の選択肢はみつかりません(真顔)

そしてそれが最適解だったりするんです。

奇しくも
セッションに参加したのはワタクシの父の命日で
経本が届いてお経を読み始めたのは
ワタクシの祖父の命日という・・・。

読みますとも。
ええ、読ませていただきますとも(真顔)

わたくしの場合
「般若心経」は新興宗教時代に読んでいて
その時代に思考がリンクしやすいので
「観音経」を読みました。

2年間は朝晩と呼んだんですが
今では・・・
イカンイカンだいぶさぼってるな(苦笑)

だからお経を読もう

「念仏唱えればいいなんて、能天気」という意見もあります
確かに行動が伴わないとただの能天気になってしまうし
娘のためにお経だけ上げていたわけではありません。

それでも
「祈り」として
目に見えない世界への何かの依頼を届けるツールとして
「お経」はたいへんオススメです。

お経初心者で
特に霊的な影響を受けるとか無い方は
宗派を問わない「般若心経」が手軽でオススメ

お経に良し悪しは無いのだけれど
ワタクシが30年前にハマった新興宗教でも
般若心経をベースにしていましたし
「般若心経」はいろいろ使われまくっているんです。

ですので
「良くない想念に引っ張られやすい人」
「憑かれやすい人」
「霊的影響を受けやすい人」
「スピリチュアル系のお仕事の方」は
やっぱり「観音経」がいいですよ^^。

観音経はフルバージョンとショートバージョンがあるので
時短が可能ですし。

読み人のクセや宗派によって少し違いがあるんですが
リズム・区切りはあまり気にせず
ただただ抑揚なく、淡々と唱えてみると良いです。

般若心経も観音経も
経典はアマゾンで1000円位で販売してるし
YouTubeに動画が出てたりするので
そちらを参考になさってくださいね

密教の大阿闍梨が
著書の「声明(しょうみょう)(言語学)」の中で
お経の読み方について書かれています。

「音声に三病あり」といわれ
・声の良い者
・リズム感の良い者
・早合点する者
は、小技にたよってしまって良くないのですって。

口は大きく開けずに大きく良く通る声を出す、
「仏声(ぶっしょう)」を出せ・・・と

わたし達は「仏声」まで行かなくてもよいので、
「淡々と」「粛々と」読めば良いのです。


般若心経とは

「空(くう)」の思想を説いた仏教の経典の1つ
般若心経の現代語訳もいろいろ出ています。

意味は知っていても知らなくても良いとは思っていますが
わたしの大好きな般若心経の本や他も参考にして
わかりやすく意味を訳したものも載せておきます。

はっきり言って
般若心経は量子力学論です(真顔)

理解しようと考えていくと
余計にわからなくなるという危険がありますので

良い話だなあくらいで流してくださいねww

仏陀のお弟子である「舎利子」さん(シャーリプトラ)さんに
“智慧の完成”の修行について観音様がお話しているという
いわゆる「エッセイ」ですね^^


「般若心経」はこちら

摩訶般若波羅蜜多心経
(まかはんにゃはらみたしんぎょう)

観自在菩薩 
(かんじざいぼさつ)

行深般若波羅蜜多時 
(ぎょうじんはんにゃはらみったじ )

照見五蘊皆空 
(しょうけんごうんかいくう)

度一切苦厄 (どいっさいくやく )

舍利子 (しゃりし )

色不異空 (しきふいくう )

空不異色 (くうふいしき )

色即是空 (しきそくぜくう )

空即是色 (くうそくぜしき )

受想行識亦復如是 
(じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ)

舍利子 (しゃりし )

是諸法空相 (ぜしょほうくうそう )

不生不滅 (ふしょうふめつ )

不垢不浄 (ふくふじょう )

不増不減 (ふぞうふげん )

是故空中 (ぜこくうちゅう )

無色 (むしき )

無受想行識 (むじゅそうぎょうしき )

無眼耳鼻舌身意 (むげんにびぜっしんい )

無色声香味触法 (むしきしょうこうみそくほう )

無眼界 (むげんかい )

乃至無意識界 (ないしむいしきかい )

無無明 (むむみょう )

亦無無明尽 (やくむむみょうじん )

乃至無老死 (ないしむろうし )

亦無老死尽 (やくむろうしじん )

無苦集滅道 (むくしゅうめつどう )

無智亦無得 (むちやくむとく )

以無所得故 (いむしょとくこ )

菩提薩埵 (ぼだいさった )

依般若波羅蜜多故 
(えはんにゃはらみったこ )

心無罣礙 (しんむけいげ )

無罣礙故 (むけいげこ )

無有恐怖 (むうくふ )

遠離一切顛倒夢想 (おんりいっさいてんどうむそう )

究竟涅槃 (くきょうねはん )

三世諸仏 (さんぜしょぶつ )

依般若波羅蜜多故 (えはんにゃはらみったこ )

得阿耨多羅三藐三菩提 
(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい )

故知般若波羅蜜多 (こちはんにゃはらみった )

是大神呪 (ぜだいじんしゅ )

是大明呪 (ぜだいみょうしゅ )

是無上呪 (ぜむじょうしゅ )

是無等等呪 (ぜむとうどうしゅ )

能除一切苦 (のうじょいっさいく )

真実不虚 (しんじつふこ )

故説般若波羅蜜多呪 (こせつはんにゃはらみったしゅ )

即説呪曰 (そくせつしゅわつ )

羯諦羯諦 (ぎゃていぎゃてい )

波羅羯諦 (はらぎゃてい )

波羅僧羯諦 (はらそうぎゃてい )

菩提薩婆訶 (ぼじそわか )

般若心経(はんにゃしんぎょう )


開運えみこ的現代語訳

悟りの智慧を説いた偉大なでわかりやすい、
親しみやすい、唱えやすい「お経」
それがこの般若心経

昔々観音様が
迷いの世界から悟りの世界へ行く修行をされた時

この世は三次元に存在する物も、
生きている人間の心も体も
実は一切が「仮の姿」で
実態は「空」で在ることに気付かれた

そしてその教えを伝えることで
人々を悩みや苦しみから救われたのです。

あのね、舎利子

形があるように見える物も実は「実態」は無いのだよ。
目に見えるすべての物、存在するすべての者は
実は「空」なんだ。

物質は「空」であり、「空」とは物質。
不思議な話だねえ。

でも人間の肉体もそれと同じで、
肉体は「実体が無い」という「在り方」で存在しているんだ。

肉体だけでなく「この世のあらゆる物や現象」は
実は「実体は無い」のだよ。

あらゆる物や現象っていうのはね
様々な何かが集まって影響しあって
「見える形」として作られたものなんだよ。

真実のような、幻のようなものが集まって
「肉体」や「物」として存在しているんだ

そしてこれは肉体や物だけでなく
「心」も同じように言えることなんだ

感覚やイメージ、感情や思考も同じ
実はこれらも「空」なんだね。

わたし達の内側も実体は無くて
幻のようなものが集まってできているんだよ。

もしかしたら
本当はどこにも「私」という境目は無いのかもしれなよね

「私であって私ではないもの」
「あなたであってあなたでないもの」
「私」も「あなた」も本当は一つなのかもしれないね。

ねえ、舎利子

こんなふうにこの世のすべての物は「空」なのだから
実はこの世界では
「生じること」も「滅すること」も無いのだよ。

キレイも汚いも無い。
何かが増えることも減ることも無いんだ。
そんなふうに見えているだけなんだね。

この「見える」も「空」なのだけれどねw
なんだか少し難しいね。

「空」の中には、何もない
「無明」といわれる「煩悩」も「悩み」も
実は「無い」んだよ。

感覚・想念・行動・知識もない。
眼も耳も鼻も舌も身体も意識もなく、

色も声も香も味も触り心地も法則もない。
目に見える世界も、意識の世界もない。

無知もない、それが尽きることもない。
また老いも死もなく、それが尽きることもない。

四つの真理(苦・集・滅・道)もない。

苦しみも、苦しみの原因も、
苦しみがなくなることも、
苦しみをなくす修行も方法も無い

知ることも、修行の成果を得ることも無いし
成果を得ないといけない、ということもないんだ

だって、それらもすべてが「空」なんだから

人は何かにこだわりを持ったり
自分を責めたり誰かを責めたりする必要は
本当はないのだよ。

けっきょく、アレコレ考えて
くよくよしたりしなくても良いってことなんだ。

おおらかに、何物にもとらわれずに生きることが
「空の知恵」で考え
「空の目」で見るということ

そしてそれが
「悟り」への最初の一歩なんだよ。

「空の知恵・目」は「般若波羅蜜(はんやはらみつ)」
と言われるもので
菩薩たちはこれを知っているんだ

だから菩薩たちは
心が何ものにもとらわれないんだよ。

恐れることもなく
己の考えに囚われてしまうこともなく
迷いもない安らぎの境地にいるんだ。

過去・現在・未来にわたるような
「仏」と呼ばれる者たちも
この「空の知恵と目」を極めることによって
「悟り」を得ていったんだよ

だから、こんなふうに言うこともできるよね

「空の知恵と目」である
般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)は

聖なる力を持った真実の言葉であり
偉大な悟りの言葉であり
他にくらべるもののない言葉である、って。

「空の知恵や目」である
般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)は
「生きる人」の一切の苦しみを消し去ってくれる
真実であり、少しの偽りのないもの

最後にこの
「空の知恵や目」である
般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の
「真言」を教えてあげよう
それがこの「言葉」だよ

「羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 
波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか)」

これだけは「真言」としてあまり考えずに
そのまま唱えるのが良いのだけれど

訳すとしたらこんな感じにかな。

「悩んだり、苦しんだり、
それでも人として頑張って生きて
ようやく「空の知恵」までたどり着いた
わたしでもある「あなた達」

あなた達が穏やかな「空の心(悟り)」にたどり着きますように
先に「空の心(悟り)」にたどり着いた
あなたである私が祈っていますよ」だよ。


「般若波羅蜜」の「真言」

「空の知恵や目」である
般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の真言は

「羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 
波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか)」

この部分だそうです。

もともとの経典であるサンスクリット語では
ガテー ガテー パーラガテー 
パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー 
となり

直訳だと

智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、
完成された完全なる智慧よ、
悟りよ、幸あれ・・・となるらしいのですが

いやもう、意味不明な真言ってことで
時間がない時や
ピンチに陥った時
ここだけでも覚えて唱えましょう。

これだけは「真言」としてあまり考えずに
そのまま唱えるのが良いよって。
観音様も言ってますしね^^


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