小説の意味を理解する必要はあるのか、というより可能なのか。
おはようございます、こんにちは、こんばんは、多田です。
今回は小説について思うところを語っていきたいと思います。「小説の意味を理解する必要はあるのか、というより可能なのか」というお話です。
文書での比喩表現のなかにメタファーという有名な技法がありますね。僕も小説を書くときに使おう、使いたいなと思うのですが中々上手く表現することが出来ず、奇をてらったシミリーに逃げてしまうことが多々あります。
けど中々の出来のメタファーを作った後、ふと思うのです。
「これは読んでくれる皆がちゃんと理解してくれるのだろうか」
僕は文章、特に小説というものは読者が文字を読み始めた瞬間から作者の所有物では無く読者の所有物だと考えています。
その作品の中に理解が出来にくい部分を残して良いのか。けれども誰にでも簡単に理解できるメタファーは存在意義があるといえるのか。そんな勝手なことを考えてしまいます。
村上春樹氏の「風の歌を聴け」なんて作品中のメタファー、そして作品全体としてのメタファーを読者のどれくらいが理解できているのでしょうか。少なくとも僕は全く自信がありません。
作品を通して読者が雰囲気やそこにある何かを感じれば良いという考えもあるのでしょうが、一応作品を作ることを志望する僕にとっては読者に何を伝えたいかは大事です。
「完全に伝わらないから、自分の思うがままに書けばいい」ではなく「完全に伝わらなくても、読者の何かを変えるために書くべきだ」と思います。
村上春樹氏が翻訳した本のあとがきかなんかで語っていました(間違ってるかもしれません、見つけたら修正します)。本の体験は自分の心の場所をある所から違う所へ移動するものだと。僕もそれが大切だと思うし、その移動に何回も救われてきました。
そして書き手になろうと決心し、誰かの心を移動させたいと思ったとき題名の様な疑問が浮かび、では作者が行う表現にはどこまで意味があるのだろうか?結果として誰かの心を移動させたとしても、そこに作者が意図した表現はどこまで寄与しているのだろうか?
なんてことを考えてしまい今回の文章を書いてしまいました。
まとまりのない考えを書いたのでまとまりのない文章になってしまいましたね。本当はこの文章にもメタファーでも入れてやろうといき込んでいたのですがそんな気力はありませんでした。
ではでは、また。
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