母の覚悟

 鏡に映る三十代後半の男は、かつての面影を失っていた。かつては母親に褒められた整った顔は、今は疲れと虚無に覆われていた。
 彼はため息をつき、髪を掻き上げた。

 彼は三兄弟の末っ子で、唯一の男児だった。両親は彼を溺愛し、将来を期待した。運動も勉強も得意で、周囲から称賛される中で彼は「できる子」というプレッシャーに苦しむようになった。

 特に母親は彼に執着し、事細かに口出しをした。彼は次第に自分自身を見失い、親の期待に応えるだけのロボットのような存在になった。
 大学入試に失敗し、滑り止めのFラン大学に進学した時、彼は初めて解放されたような気持ちになった。

 一人暮らしを始めた彼は、自分の好きなことを自由に勉強し、主席で大学を卒業した。希望していた東京の有名企業に就職し、順調にキャリアを積み重ねていた。

 しかし、仕事が忙しくなり、帰省することは滅多に無くなった。
 久しぶりに帰省した彼は、老いた両親の姿にショックを受けた。彼は自分が長男であることを改めて意識し、将来の面倒を看なければならないという責任を感じた。

 東京で出会った女性との結婚も、地元への帰郷を考えなければならなくなったことで進展しなかった。彼は独身のまま、三十代最後の年を迎えた。

 仕事で管理職への昇進チャンスが訪れたが、その責任は彼を東京に縛りつけるものだった。彼は思い悩んだ末、地元の地方自治体に転職することを決意した。

 しかし、田舎の生活は退屈で、仕事も刺激に欠けた。彼は東京での生活を恋しく思った。結婚適齢期を過ぎ、今更田舎に根を下ろす口実もない。

 そんな時、彼は近県の地方都市を本社とするグローバル企業に転職することを決意した。もう一度、自分の経験と知識を活かし、地方経済の発展に貢献したいという想いからだった。

 転職先が決まり、両親に報告すると、母親から思いがけない言葉をぶつけられた。
「勝手に東京から帰ってきたんだから、勝手に出ていけばいい。」

 彼はショックを受けた。
 高齢の両親を心配し、彼らの面倒を見るために地元に戻ってきたはずだった。転職先も、実家へ駆けつけやすい場所を選んだ。なのに、母親は感謝の言葉どころか、冷たい言葉を投げかけてきた。

 彼は鏡に映る自分の姿をもう一度見上げた。
 そこには、帰る場所を失った男の孤独な姿が映っていた。

(了)