太白陰経遁甲巻注解

はじめに

太白陰経は正しい名称を「神機制敵太白陰經」という兵法書である。著者は李筌で、本籍不詳、生没年月不明で、唐の粛宗から代宗の治世(西暦756~779年)において唐朝の役人として活動した記録が残っている。軍事について才能があり、太白陰経を含むいくつかの兵書を書いたと伝わっている。晩年は少林寺で有名な嵩山に入って隠棲した。

日本の戦国時代を含む中世と同様に、中国においても軍事には様々な決まり事があり、その多くが術数と密接な関係を持っていた。そのため士官将官級の人間にとっては術数についての基礎知識が必須であった。
太白陰経もそれにならって全十巻の内で、第九巻の全体が奇門遁甲、第十巻が六壬神課を含む雑式についての解説となっている。なお太白陰経では六壬神課を「元女式」と呼んでいる。

太白陰経は唐の時代の書なので、宋代に書かれた奇門遁甲の基礎文献とされている「煙波釣叟賦」よりも古い。そして詩賦の形式で書かれた「煙波釣叟賦」と違い散文で書かれているので、具体的で解釈の余地は狭い。

太白陰経遁甲巻の奇門遁甲は唐の時代に書かれたにも関わらず、現代の奇門遁甲と既にほとんど変わらないものとなっている。ただし八神については明確な記述がなく、吉凶判断に関する記述の中で八神らしい記述が出現するのみで、太白陰経の奇門遁甲には明確には組み込まれていない。

本稿では太白陰経遁甲巻の原文をあげ、それに対して解説を加える。原文には適宜句読点を付加した。太白陰経遁甲巻は以下の19の章から構成されている。章番号は筆者が付加したものである。
1.遁甲総序 2.日辰 3.六甲 4.五子遁元 5.九星 6.九宮 7.八門 8.直符 9.三奇 10.直時 11.課式 12.向背択日 13.推五星所在法 14.推行八千四角天乙依元女式 15.推恩建黄道法 16.推亭亭白姦法 17.出師安営 18.閉六戊法 19.玉女閉局法

従来あまり注目されない遁甲総序についても少し考察を加えてみたい。
なお、この太白陰経の奇門遁甲は玄珠さんによって発見されたもので、この解説も玄珠さんの研究に負う所が多い。感謝する次第である。


原文と解説

以下、太白陰経遁甲巻の原文をしめし、解説を加えていく。原文には筆者が句読点を不可した。

遁甲総序

原文
遁甲總序
経曰黄帝征蚩尤七十二戦、而不克。昼夢金人引領、長頭衣元狐之裘、而言曰某天帝之使授符于帝。帝驚悟求其符不得。乃問風后、力牧。力牧曰此天帝也。乃於盛水之陽築壇祭之。俄有元龜巨鰲従水中出、含符致于壇而去。似皮非皮、似綈非綈、以血爲文、曰天乙在前、太乙在後。黄帝受符再拜。於是設九宮、置八門、布三奇六儀、爲陰陽二遁。凡一千八百局、名曰天乙遁甲式。三門發五將具、而征蚩尤以斬之。
蚩尤者炎帝之後與少昊治西方主金、兄弟十八人。日尋干戈恃甲兵之利殘暴不仁。聞黄帝獨王于中央、將欲勝四帝恃甲兵於涿鹿。黄帝至道之精。其神無所倚、其心無所適。淡然與萬物合其一天道。虧盈而益謙。乃授黄帝神符而勝之。使黄帝行蚩尤之暴、蚩尤行黄帝之道、則蚩尤得符而勝黄帝矣。黄帝因蚩尤之暴、則黄帝得符而勝蚩尤矣。天道助順、所以授黄帝符者、欲啓聖人之心、贊聖人之事也。吉凶成敗在乎道、不在乎符。今取其一家之書、以備參攷耳。

読解
遁甲総序
経ニ曰ク黄帝蚩尤ヲ征シテ七十二戦スルモ、而シテ不克タズ。昼夢ニ金人引領スル、長頭ニシテ元狐之裘ヲ衣トシ、而シテ言イテ曰ク某ハ天帝ノ使ナリ、帝ニ符ヲ授ケン。帝驚悟シテ其ノ符ヲ求ムルモ得ズ。乃チ風后、力牧ニ問ウ。力牧曰ク此天帝也。乃チ盛水之陽ニ壇ヲ築キテ之ヲ祭ル。俄ニ元龜有リテ巨鰲ヲ従エ水中ヨリ出ズ、符ヲ含ミ壇ニ致シテ而シテ去ル。皮ニ似テ皮ニ非ラズ、綈ニ似テ綈ニ非ラズ、血ヲ以テ文ト爲ス、曰ク天乙ハ前ニ在リ、太乙ハ後ニ在ル。黄帝符ヲ受ケ再拜ス。是ニオイテオイテ九宮ヲ設ケ、八門ヲ置キ、三奇六儀ヲ布シ、陰陽二遁ト爲ス。凡ソ一千八百局、名ヅケテ曰ク天乙遁甲式。三門發シ五將ヲ具エ、而シテ蚩尤ヲ征シ以テ之ヲ斬ル。
蚩尤ハ炎帝之後少皡ト西方ヲ治メ金ヲ主ドル、兄弟十八人。日ク干戈ヲ尋ネ甲兵之利ヲ恃ミ殘暴不仁。黄帝獨リ中央ニ王スルト聞キ、將ニ涿鹿ニオイテ甲兵ヲ恃ミ四帝ニ勝タント欲ス。黄帝ハ至道之精ナリ。其ノ神倚トスル所無シ、其ノ心適スル所無シ。淡然トシテ萬物ト合シ其レ天道ト一ツナリ。虧ケ盈チ而シテ益謙ス。乃チ黄帝神符ヲ授カリ而シテ之ニ勝ツ。黄帝ヲシテ蚩尤之暴ヲ行シメバ、蚩尤ハ黄帝之道ヲ行キ、則チ蚩尤符ヲ得テ而シテ黄帝ニ勝ツ矣。黄帝蚩尤之暴ニ因リ、則チ黄帝符ヲ得テ而シテ蚩尤ニ勝ツ矣。天道ハ順ヲ助ケ、以テ黄帝ニ符ヲ授ケル所ハ、聖人之心ヲ啓カント欲シ、聖人之事ヲ贊ル也。吉凶成敗ハ道ニ在リ、符ニ在ラズ。今其一家之書ヲ取リ、以テ參攷ニ備エル耳。

解説

遁甲総序は2つの段落から構成されており、前段では奇門遁甲の創始伝説が語られている。前段の内容は以下の様なものである。

黄帝が涿鹿で蚩尤と72戦して勝つことができなかった時、うたた寝をする。夢に天帝の使者が現れて、黄帝に符を授けると言われる。黄帝は飛び起きて符を探すが見つからず、風后、力牧を召し出して夢について語った。力牧は「その夢に現れた人こそが天帝に間違いありません。」といった。そこで盛水に壇を築いて天帝を祭ったところ巨大な亀が現れて含んでいた符を壇に置いてさった。その符は何でできているか判らなかったが、血で文字が書かれており「天乙は前にあって、太乙は後ろにある。」とあった。黄帝は符を受けて天帝を何度も拝した。ここに陰陽二遁に従って九宮に八門を置き三奇六儀を配布する術が生まれた。全体で1080局あり天乙遁甲式と名付ける。

後段は非常に道徳的な内容となっており、蚩尤と黄帝が戦うことになった経緯と、黄帝が天道に従う者で、蚩尤は暴虐であったために、黄帝が符を得て蚩尤に勝つことができたとされている。

さて前段に戻って、中国では昼間のうたた寝には何か意味があり、そこで見た夢には重要な事柄が暗示されているという感覚があったと推測できる。呉越の興亡を描いた呉越春秋という漢代の書では、呉王夫差が斉との戦争のための進軍中に急に眠気を催してうたた寝をし、そこで見た夢について夢占いをさせる話が出てくる。おそらくは黄帝も急な眠気に襲われて昼間にも関わらず眠ったのであろう。そして天帝の夢をみたわけである。

なお壇に現れた巨大な亀が置いていったのは符であり、天書といわれるような書物ではなかったことは記憶に留めておいてよいだろう。ひょっとすると本来の奇門遁甲は符法が中心で、その符のための式次第として方位や時刻を選択する術があった可能性がある。

この遁甲総序の伝説は時代が下がると、現れたのが亀であったことと、奇門遁甲が洛書の魔方陣を背景に持っていることから、禹の時代に洛水に亀が現れ、その背中に洛書の模様があった話と混同されてしまう。煙波釣叟賦の遁甲総序にあたる部分は、そのような混同が反映されたものとなっている。しかし太白陰経遁甲総序では壇を築いたのは盛水の辺で洛水ではないし亀は符を置いて去っており、洛書の伝説とは全く異なっている。

さて亀が置いていった符の「天乙は前にあって、太乙は後ろにある。」は、おそらく「太乙に坐して天乙に向かって進軍せよ。」という意味であろう。軍事技術としての奇門遁甲らしい符であるが、坐向の概念が含まれていることは注目に値する。
なお太白陰経では奇門遁甲を「天乙遁甲式」と呼んでいるように、古い奇門遁甲は六壬もしくは金函玉鏡の影響を受けていた可能性がある。しかしながら奇門遁甲は九宮太乙術の流れをくむものなので、天乙遁甲式は太乙遁甲式の誤写かもしれない。

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