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【ショートショート】桃源郷

「これ、だれの曲?」
「ああ、EGO-WRAPPIN'のfingerだよ。サクちゃんが好きだったよ、この曲。」
悪くないね、と僕は言う。目の前で、マスターが淹れてくれるコーヒーのサイフォンが、こぽこぽと音を立てて沸騰し、コーヒーの薫りが広がる。
僕はこの喫茶店から聴こえる音、におい、宿るもの全てが大好きだ。

サクちゃんが戻橋の上で亡くなって、一年経つ。あれから、毎晩、僕は眠れなくなった。そして、普通に生活するということの全てが分からなくなった。
普通が一切なくなった僕にマスターが、毎日全く変わらない味で出してくれるのが、コーヒーで煮込んだ牛スジカレーと、リンゴジュースだ。

「サクちゃんに逢いたいかい?」
うなずく僕に、マスターが差し出したのは、五芒星が描かれた奇妙な護符だった。
「それを持って戻橋に行ってごらん。式神がサクちゃんのところに案内してくれるかも知れない。運が良ければ」
「式神ってなに?」
「さあ、変幻自在な妖怪みたいなものらしいよ。君のところには、どんな姿で現れるだろうか」

マスターに別れを告げて、そぼ降る雨の中、戻橋に向かう。
橋の袂には、目の覚めるような赤い袴を着た、狐面の巫女がいた。
「今から、サクが橋を渡る直前に時間を戻す。もしお主が、サクを止めることができたら、サクとうつし世に戻してやろう。
ただし、サクが戻れる時間は、お主が成人するまでの二十年とし、その二十年はお主の寿命からもらうものとする。
止められなかった場合は、お主もサクも隠り世から戻ることはできぬ。よいな」

僕が分かりました、と言うと、すっと霧がかかり、橋に向かって来るサクちゃんが見えた。
橋を渡ろうとしたサクちゃんの腕をつかむと、サクちゃんが振り返って、ニッと笑った。僕は、ハッとする。

閉店した喫茶店のカウンター席に座って、うたた寝していたサクちゃんがガクッとなって目覚めた。それと同時に、サクちゃんのお腹の中の僕も目覚める。
僕のお父さんのマスターが大丈夫?、とサクちゃんに優しく声をかけた。

お腹の中では、サクちゃんの心配事が全部分かる。
コロナ禍の中、僕を産んで大丈夫だろうか、僕をきちんと育てられるだろうか、僕が成人するまで生きていられるだろうかって心配している。でも、それよりも早く僕に逢いたいって気持ちがずっと大きいことを僕は知っている。
僕はサクちゃんとマスターに逢いたくて、戻橋を渡ってここに戻って来たのだから。

お腹の中の僕にまで、EGO-WRAPPIN'のfingerが鳴り響いてきた。

(了)

これはピリカさんが募集されている、ピリカルーキーとして書いたものです。
付け焼き刃で書いてしまったので、誤字脱字が多いかも知れません。
また、初めてのショートショートです。ショートショート=星新一さんだと思っていて、これがショートショートに分類されるのか分かりません。
審査される皆様、こんなに拙いものを、本当に申し訳ありません。

本作に出てくる歌は、京都の晴明神社の近くにある地元の人が多く通う喫茶店のマスターから実際に教えて頂いたものです。
数年前は、滋賀県に住んでいて、京都にも度々通っていました。
また、本作を書くにあたって、栗英田テツヲさんのnoteを参考にさせて頂きました。
本当にありがとうございました。


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