セザンヌとおばさん

「科学的に理解して、論理的に喋れる人が一番出世するんだって」と僕を抜かしながら歩く二人組が話していた。
話題を出していた方を見やると、なるほど非科学的で幾何学的な体型だった。セザンヌだったら円筒形で表現したに違いない。
僕はエクス=アン=プロヴァンスの風に吹かれた事はないが、札幌の緯度がロンドンと同じだという事は知っている。スイスの冬は札幌のそれのように根暗なものではなさそうだ、ということも。
「考えと話でそれぞれ右脳と左脳で分けてるから賢くなるんじゃないかな」
さきの円筒形の人が続ける。科学的理解と論理的思考とはどちらも左脳領域にあるのではないかと水を差す元気もこちらにはない。
「自然を円筒形か球体か円錐体として捉えなさい」とセザンヌが言うので周りを見てみると、なるほど鋭利なものは人工物にしかない。鋏の刃、付箋の矩型、ラップトップの角っこ。みんな違って、みんな鋭い。勘違いしてはいけない。円みを帯びたものが人工物にないのではなくて、鋭利なものは人工物にしかないのだ。
そう考えると、大昔の(あえてこんな曖昧な言い方をするが)人びとは、リストカットも飛び降りも睡眠薬服用もできなかったんだと改めて思い至り、なんだか不思議な気持ちになった。
笑った。

人は鋭利なものでしか死ねない。鋭利な刃物、鋭利な衝撃、鋭利な思考、鋭利な言葉。
円みを帯びたもので死のうとするとき、人は拍子抜けしてしまうものだ。「おかえりなさい」の一言で人は死ねない。むしろ、悩みを打ち明けられない人は、「おかえりなさい」への強い拒否感や脅迫観念を示し、「おかえりなさい」から逃れようと自ら死を選ぶのだ。暖かい言葉は自らとの温度差によっては火傷の元になる。円みから目を背けんがための鋭利さ。

「ここであなたにお話したことをもう一度繰り返させてください。つまり自然を円筒、球、円錐によって扱い、全てを遠近法の中に入れ、物やプラン(平面)の各側面が一つの中心点に向かって集中するようにすることです。水平線に平行な線は広がり、すなわち自然の一断面を与えます。もしお望みならば、全知全能にして永遠の父なる神が私たちの眼前に繰り広げる光景の一断面といってもいいでしょう。」
【浅野春男 『セザンヌとその時代』東信堂〈世界美術双書〉2000年】

自然をここまで科学的に捉えて、論理的に説明しているのだ。これは出世しないはずはない。

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