人間に疲れたあかつきに

一日が悠久の如く長く感じられる。曇天曇天の二日間から打って変わってびっくりするほど晴れた神宮球場ヤクルトオープン三連戦の最終日。実際にびっくりしたのだが、「びっくりするほど」というのは、まあ表現のあやだ。ここで「言葉のあや」ではなく「表現のあや」としたところに自分の成長を感じる。いつもならやはり「言葉のあや」とするか、「宮間あや」などやって興ざめなのであるが、良く我慢している。
我慢しているといえば、今日のヤクルトも良く我慢した。というより、お互いに貧打で決め手を欠いたと言うべきか。僕の前の席にはつば九郎のヘルメットをかぶった女子高生か女子大生、いわば女子大生幕下十枚目格付け出し、といった感じの二人組が応援歌も歌えないのに立ち上がってツインバットを叩いていた。度し難い、と僕は思う。そういう奴らが近くにいるほど、僕の歌声は声量を増していく。
そんな回想をしているうちに、神宮球場から新宿高島屋に着いた。地図をほとんど見ずに来たのだから、大したものだ。僕はこのまま世界堂に行くつもりだ。
街にはリクルートスーツの就活生が目立つ。いや、僕の網膜をして映さしむのかもしれない。今、「AをしてBにCせしむ」の例文を知恵袋に問うてしまった自分を恥じる。自分は彼らより出遅れているのだという気持ちと、人が汗をかいている時にバットに夢を乗せ放つその打球でツバメを勝利へ導け慎吾などと歌っていられることへの悪い快感が浮き出てハーフアンドハーフだ。
新宿の女子高生はスカートが短い。彼女たちは新宿という土地ごしに自分たちが他の女子高生よりもずっと性的な視線を受けていると気づいているのだろうか。僕には気づいているように見える。そしてそれに応じて自分たちの態度を固めているきらいさえある。彼女たちは若さゆえに尊い。彼女たちが若さゆえに尊いゆえに僕らは性的な視線を送る。持ちつ持たれつ、である。思えばこの言葉にも「ちつ」が入っていて性的だ。新宿のためにある言葉かもしれない。いや、それはない。
新宿二丁目を通り抜ける時、歩きしな男性器のひとつやふたつ握られることもあるだろうと踏んでいたのだが、午後五時半の新宿二丁目はいたって平和だった。

街には花粉がたいへん多く飛んでいるという。僕のレセプターはどうやらまだ持ち堪えている。そろそろマスクでもしようと思ったきり、何もしていない。新宿という街に似合わない育ちのいい顔をしているならなおさら必要だというのに。
ドンキホーテなんて寄りたくなかった。こんなん外国人の入るとこですやん。と後悔しながら店を出ると、ビル街の向こう側に陽が落ちてしまっていた。夜の新宿に用などない。今日はクソダサい総武線で帰ることにする。

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