祖父のにこにこ

 大型連休に地元へ帰った。その中の一日で、父方の実家に行った。実家は北海道の南側に位置する港町で、大型プラントのぐねぐねやら、クリームソーダの色に塗られた大きな球形のタンクやらが在りし日の鉄工業の賑わいを遠く感じさせる。今は五月の爽やかな風が吹いている。風が爽やかだということは、鉄工業が渋っているということの証左に他ならない。

 母方の実家は当時の住まいから遠くなかったこともあって、入院していた祖父を見舞うために毎週末訪れていたし、祖父を看取ったあとは同じ町に祖母を抱き込んだ二世帯住居を建てたりしていて特別な思いは無い。だけども父方の実家を訪れるのは半年や一年くらいの周期だったから、孫と言いつつも、二親等よりも外側の「お客さん」のような気持ちがあった。父の兄、長男一家が同居していたことも一因だった。

 中学くらいまでは持ち込んだゲームをやっていればどうにかなったけど、高校・大学と上がるにつれて暇を持て余すのが辛くなった。そこそこ予定もあったし、大学では一人暮らしをしていたので、父方の実家に行く頻度も大きく減った。

 三、四年ぶりの訪問だった。特にここ数年は、東京でボンクラ並みにボンクラボンクラ過ごしていたものだから、ちゃんと社会人やってます、ちゃんと休暇取っちゃいました、ちゃんとじいちゃんばあちゃん家も来ちゃいました、と自分の中で大義名分が立ったことがありがたかった。

 久々の訪問も、大して変わったことはなかった。祖母の少しだけ曲がった腰も、家の中も。ただ話には聞いていたが、祖父の認知症が始まっていた。僕が来ることを祖母が伝え、覚えているか尋ねると、「ああ、メガネかけてたな」と言ったそうである。正解率50%の問題であった。コンタクトをつけて来なくて良かったと思った。
 ついに認知症が身近な問題になったのだという実感と同時に、それが同居していた母方の祖母のような、ごく身近な存在でなかったことに少しだけ安堵してしまった。
 とはいえまだまだ始まった段階で、話が解らなかったりするようなこともないし、晩には寿司もケンタッキーも一緒に食べたし、一般的な認知症のイメージに見られるようなどことなく不満そうな苛立ちも見られなかった。むしろニコニコしていた。
 どことなく険のある、鉄工の世界で生きてきた強さやきびしさが消えていた。家業をほぼ退いた後も変わらず煙草を吹かし、小学生の僕に「水だ、飲め」と言って日本酒をすすめてきたあのハードボイルドさが消えていた。それがショックでならなかった。

 いま祖父の衰えは、室蘭という街の衰退との二重写しになっている。

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