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夜明け前がいちばん暗い


私は夜が好きだ。徐々に陽を見失う怖さよりも、ぼぅっと空を見上げていると浮かび上がる星を見つけられる喜びとあたたかな静けさに安心する。

だけど夜が怖い。大好きな静けさが、私を世界に独りにしているような気がする。なんとなく落ち着かなくて忙しなくSNSを開いて世界と繋がろうとするけれど、ふと画面から視線を外した瞬間、その静けさに絶望する。ふと明日が怖くなる。

だから「夜明けのすべて」に出逢えてよかった。世界のどこかに山添くんと藤沢さんがいると知っていることは私にとって何よりの救いで、彼らは気づいていないけど彼らが私にくれた「助けられること」だ。


映画を観る前、私は「これは私のための映画じゃない」と感じていた。もちろん予告や前評判から素晴らしい映画だということは知っていた。原作を読んで心が軽くなる夜もあった。だけど私はこの映画に救ってもらうには少し恵まれすぎている。家族から深い愛を受け、大好きな友達に恵まれ、自分の心が高鳴ることを学ぶ機会を得ている。そして健康だ。生理はしんどいけど、きっと人並みだ。

私がこの映画に救ってもらうのはどこか申し訳なくて、きっと距離のある感想を抱くだろうなと思っていた。私にはパニック障害のつらさもPMSのしんどさも分からない。そういう「違うこと」にフォーカスされてしまうと思っていたから、それを映画を観たくらいで理解した気になるのは絶対に嫌だった。だから「自分じゃない誰かに向けたメッセージを感じてそこに心を動かされる」という気持ちで公開を待った。あのチームが誰かを置いていくような映画を作るわけがないのに、愚かな考えだったなと今では思う。

待ちわびた公開日、ひとり映画館に向かった。

藤沢さんと山添くんがいた。
なにかとても特別なことが起こるわけでもないけれど、ふたりが少しずつ進んでいく姿がとても丁寧に映し出されていた。
それはふたりがパニック障害やPMSを乗り越えたからというわけではない。きっとまだ上手く付き合えない日もある。それでも日々が回っていく。その嘘のなさに救われた。

物語が進むにつれて特に山添くんは表情や声色が変わっていく。明るくなっていく。なんだかとても特別なことに思えるけれど、それすら彼にとっては生活の一部なんだろう。
発作はまた起こってしまうし、彼はそれと上手く距離を掴みながらなんとか付き合いながら生きていかなければならない。
だけど彼は藤沢さんと出会えた。あの日藤沢さんが山添くんの家に買ったものを届けに行っていなければ、山添くんが思いきって藤沢さんを呼び止めなければ、彼の世界は違っていたはずだ。藤沢さんと出会って、人との繋がりという温もりを思い出した。それだけで十分なのかもしれない。
病気に向き合わなければならない時間があって、だけど少しずつ思い出してきた楽しさや柔い感情になれる時間もあって、それが山添くんにとってはなんてことない日常…というには少しハードモードだけど、そんな日々なんだ。パニック障害ではない人と「違う」文脈で切り取られているわけではない。世界中の人は皆、こうして何かに楽しんで、苦しんで、もがきながら過ごしているから。

藤沢さんもそうだ。
映画の冒頭、原作と同じように藤沢さんの「私は周りにどう思われたいのだろう」という思考の中で、特別なことを思われたいわけではないのにいつも人の目を気にして生きている、ということに思い至る。友達にキレてしまったあと「普段は気にしすぎるくらいなんだけどね〜、まぁでもみんなそうか……」と呟く。
すごく"普通"だ。
原作で「月に1回怒り出すだけであとはニコニコ仕事してくれるんだもの」という表現があった。
けれど彼女は最初に就職した会社でPMSを打ち明けられなかった。その後再び就職しようとしてもPMSに阻まれた。
そんな藤沢さんがなんとか掴んだ日常が、ずっと必死に探してきた日常が、栗田科学での日々なのだ。
世界は優しいわけではない。だけど中には優しさもある。あたたかさもある。彼女は栗田科学でそれを得て、次の歩みを始めた。なんてたわいもなく壮大な日常だろう。

定期的に襲ってくる自分の心や体がどうにもできない時間への恐怖も、突発的にやってくるもう生きていられないと思うほどの時間への恐怖も、簡単に消えない。それでも今、生きている。明日は今日よりちょっといい日かもしれないし、ちょっと生きづらい日かもしれない。
きっと誰もがそうやって毎日を過ごしていて、ふたりはちょっと表に出ている生きづらさが大きいだけ。だけ、なんて私が言っていいことではないのかもしれないけれど、彼らの穏やかに流れる日常を見ていたら、そこに特別な差をつけることのほうが違和感がある。

好きなシーンがたくさんあって、本当はひとつずつ挙げたいのだけど、そうやってすべてを語ることがどこか勿体ないと感じてしまうから厳選していくつかにしておく。


「毎回無理しなくていいのよ、習慣になったら良くないし。でも私、ここの大福大好き。」

住川さんの言葉。本当にこういう言葉ってありがたい。どうしたって気を遣うところで「習慣になったら良くないし」という自分以外の誰かのためも含まれた言葉をかけてもらえるだけで少し荷が軽くなる。でもその言葉が「指摘」になってしまうときっと藤沢さんは萎縮してしまう。それを掬うかのような「でも私、ここの大福大好き」のあたたかさに私は何度でも救われる。藤沢さんを気遣ったうえでの一言ならこういう人がたくさんいる世界になればいいなと思うし、もし元来彼女が持っているものだとしたらもう人間性として尊敬してしまう。

あとこのシーンとか、シュークリーム配るシーンとか、藤沢さんのぎこちない笑い方が好きだ。私もちょっと仲良いくらいの友達との絶妙な会話とか、バイト先の人に何かお礼を言われたときとか、もっと上手く笑いたいのになぁと思うことがたくさんある。笑顔を作れないわけではもちろんないし、その場の雰囲気を明るく保ちたいという思いはもちろんあるのだけど、自然に出る笑顔じゃないという理由だけでどうしても躊躇いが混じってぎこちなくなる。あの姿を観ていると、藤沢さん頑張って生きているんだなぁと思う。それはすなわち私が勝手に藤沢さんを介して自分を肯定できる瞬間で。外から観たら私もあんな風に見えているのかなぁと思うとほんのり照れくさいけれど、頑張れているつもりなんて一ミリもなかったのに思わぬところから日々を認めてもらったような気がした。

大福を渡しに来てそこから去るとき、わざわざ大きな声で何か言ってから行くのも違うし、だけど挨拶なしで行くのも違うし、という葛藤の末「じゃああの、失礼します」と揺れながら小声で言ってから去るのも大好き。ああいう風に会話が続いているところに自分がいなくなるよということを知らせることは圧倒的に気が引けるけど、「失礼します」という言うだけだと無愛想に取られないかなと思ってしまって、そんなことを考えていたら先に体は去りたがり始めて、どうしようもなくなった結果の「じゃああの、失礼します」なのかなと感じた。分かるなぁと思う。
そういう小さな「どうしようどうしよう」を「えいっ」と乗り越えながらみんな毎日過ごしているんだなと思ったら自分もあながち頑張ってるのかもなと思えて、「生きるのがほんの少し、楽になる」気がした。頑張らなきゃと思っているのに頑張れない自分も、何を頑張ればいいのかどんどん見失っている自分も、とても嫌だったから。一生懸命生きている藤沢さんにそれだけでも十分だよと教えてもらった気がした。


「あ…れはね、うん、凄い、ですね。」

山添くんが辻本さんに「今の会社に残る」と話したあと、移動式プラネタリウムについて語る場面。この山添くんの言葉が私にはとてつもなく輝いて聴こえた。
元々コンサル会社にいた山添くんは、きっともっとたくさんその凄さを表現する言葉を、プレゼンする言葉を持っているはずだ。その彼が発したのがこの言葉だったこと、ずっと忘れたくない。すべてを圧倒するような星の輝きに魅せられたことが山添くんを栗田科学に留まらせる一因になったのだとしたら、なんて美しいことなんだろうと思う。噛み締めるようにこう言う山添くんが毎回愛おしくて、前を向いたんだなと思う。

思わず涙を見せる辻本さんと同時に、私も泣きそうになった。彼の時間が動き出したことが宇宙の中の営みに戻ってきたことのように思えて。だけど山添くん本人は全然そこに気が付かないところがいいなと思う。山添くんって適度に鈍感だから。「辻本さん?」とか言っちゃって。自分が栗田科学に残ると言ったことが、楽しそうにプラネタリウムの話をすることが辻本さんにとって嬉しいことだとはきっと分かっているだろうけど、山添くんの想像以上に辻本さんは山添くんのことを想っている。

山添くんの周りには、彼のことを想う人がたくさんいる。最後のモノローグで「みんなどこかに行ってしまった。だけど本当にそうだろうか?」と山添くんは語る。人の優しさに触れることで少しずつ、自分が見えている部分以外に人の想いがあることに気が付けたのかなと思うと嬉しかった。活力にあふれた明るい人だったからこそ、きっと目に見える形で触れる優しさや楽しさが多かったはずで、それを見失ってしまったことですごく独りに感じてしまったんじゃないかなと思う。だけど見えないところにも、見えないところにこそ、優しさとかあたたかさとかがあるんだということを徐々に知っていく山添くんの姿に、安堵のような喜びのようなとにかくあたたかい感情が胸に広がっていく時間だった。このシーンはその想いたちに恐る恐る触れてあたたかさに気づいた山添くんが何か暗く黒いものから解き放たれていくような気がしてしまう。


「藤沢さん?忘れものです。携帯とか、原稿とか。…練習してもらわないと困るんで。」

この言葉を含め前後のシーンが本当に好き。山添くんが何気なく栗田科学の上着を羽織るところ。藤沢さんのエコバッグに入れて持って行くところ。藤沢さんがくれた自転車に乗るところ。ゆっくりと日向を漕ぎ出すところ。下り坂を爽やかに通ったあと上り坂になると自転車を押して歩くところ。「練習してもらわないと困るんで」がどこまで本気だか分からないところ。なんの躊躇もなく荷物をかけたらすぐに帰るところ。藤沢さんが柔らかな光の中で山添くんの自転車姿を見ているようなところ(このシーンで萌音ちゃんがクランクアップだったの、あまりに美しい)。何か藤沢さんが山添くんにメッセージを送ってそのあと「さ、やるか」といったふうに髪の毛を結ぶところ。公園でメッセージを見て山添くんが少し微笑むところ。山添くんが自転車で通る道が息を呑むような、わぁっと声が出てしまいそうな光に包まれているところ。山添くんが、鯛焼きを買って帰るところ。住川さんが、社長が、本当に嬉しそうなところ。やっぱり山添くんはその反応にちょっと戸惑ってるけど嬉しそうなところ。

この映画の美しさが存分に詰まっているなぁと思う。奇跡みたいな光の中で日常を一歩進めた山添くんの姿が眩しい。上着を手に取った山添くんを社長は静かに見つめる。それを手に取ることが初めてだということに気が付いているのだろうか。そして山添くんは、それを初めて着たことにどれくらい自覚的なんだろうか。
その何気なさが私はとても嬉しい。変化があるとそれを指さして大きな声で伝えてくれようとする人も多い世界で、それを穏やかに受け流してくれる人の存在を確認できるようで、少し息がしやすくなる。何かを変えることに怯えずに済む。

藤沢さんは何を送ったのだろう。最初の2回くらいは見当がつかなかった。今は観るごとに違う想像をする。「上着、似合ってるじゃん」かもしれないし「結局自転車使ってるんだね」かもしれないし「帰りに会社の皆さんになんか買って行きなよ?」かもしれない。どれもふたりらしくて私の想像にしてはお気に入りだ。このやり取りの中身を明かそうとして「やっぱりやめとくか」となった副音声の3人もすごく細やかな優しさだなと思った。ここに余白があることが、恋愛関係ではないふたりだけどふたりしか知らないたわいもない秘密があることが、なんだかとても特別な気がしたから。

最初は藤沢さんのシュークリームを返していたような山添くんが鯛焼きを買ってくる、その変化は大きいけれど、それがあの陽だまりの中で働く彼らを見ているととても自然なことに思える。「お菓子を分け合うような文化が最初は苦手だったんです。だけど人は見かけによらないな、と。」ドキュメンタリーのインタビューにこう答えた山添くんは、藤沢さんのお節介さというか遠慮のなさというか、でも根底には優しさがあるような、そんな心に触れたこともきっと手伝って、この会社に残ることにしている。「お菓子を分け合うような文化」が苦手だった山添くんが適度な距離感のある優しさに包まれて鯛焼きを買うようになる、なんとも素敵な変化だ。そりゃあれだけ素敵な会社にいたらそうなる。

そしてやっぱり、あの自転車で進む山添くんに差す光の強さは鮮烈だ。強くて目を瞑ってしまうような眩さではなく、すべてを包み込んで照らしてくれるような、あの奇跡みたいな輝きがもう一度観たくて何度も映画館に足を運んだ。その光を背負う山添くんが、もう暗闇に留まる必要がなくなったようでやっぱりこれもとても嬉しい。暗闇に引きずり込まれてしまう瞬間もあるけれど、光のほうに身を委ねることも出来るようになったから、彼はこれからもきっとやっていける。彼に光が差したことを知っているから、私も光を信じられる。それは「パニック障害の山添くんでもああやって少し前を向けたんだから」というものではなく、なんというか「この世に光がある」みたいな。普遍的で、ずっとあるのかもしれないけれどそう簡単には気づけなくて、だけど気づいた瞬間その輝きの尊さに何かこみ上げるものがあるような、そんな光を見つけた心地がするのだ。だから私はこのフィルムが好きだなと思う。


夜についてのメモ

夜明け前がいちばん暗い。
これはイギリスのことわざだが、人間は古来から夜明けに希望を感じる生き物のようだ。
たしかに、朝が存在しなければ、あらゆる生命は誕生しなかっただろう。
しかし、夜が存在しなければ、地球の外の世界に気づくこともできなかっただろう。
夜がやってくるから、私たちは、闇の向こうも途轍もない広がりを想像することができる。
私はしばしば、このままずっと夜が続いてほしい、永遠に夜空を眺めていたいと思う。
暗闇と静寂が私をこの世界に繋ぎとめている。
どこか別の街で暮らす誰かは、眠れぬ夜を過ごし、朝が来るのを待ちわびているかも知れない。
しかし、そんな人間の感情とは無関係に、この世界は動いている。
地球が時速1700キロメートルで自転している限り、夜も朝も、等しくめぐって来る。
そして、地球が時速11万キロメートルで公転している限り、同じ夜や同じ朝は存在し得ない。
いま、ここにしかない闇と光—すべては移り変わっていく。
一つの科学的な真実—喜びに満ちた日も、悲しみに沈んだ日も、地球が動き続ける限り、必ず終わる。
そして、新しい夜明けがやってくる。

映画「夜明けのすべて」パンフレットより引用

ひとつ前に挙げたシーンと並んでこの映画でいちばん好きかもしれないところ。藤沢さんがちいさな懐中電灯を使って読み上げ、山添くんが静かに耳を傾けるこの言葉が、本当に好きだ。
「私はしばしば、このままずっと夜が続いてほしい、永遠に夜空を眺めていたいと思う。暗闇と静寂が私をこの世界に繋ぎとめている。」この言葉を初めて聴いたとき、緩やかに私のなかの何かが決壊した。

私は夜が好きだ。その静けさと何にも急かされない暗さ、ぽつぽつと浮かび上がる星、気が付くと位置を変えている月。私が何もせずに見上げている間に、とてつもなく大きいはずの存在が小さくちま、ちまと動いている。その動きを人間は止めることが出来ない。逆らうことが出来ないまま眺めて、やがてまた夜が明ける。

とっても嬉しいことがあった日も、どんなに嫌なことがあった日も、一度月が昇ってまた沈めば「昨日」という過去になる。月に、星に手が届かないのと同じように、私たちは「今」を捕えられない。嫌な過去は消えないのに嬉しい思い出はどんどん遠くなっていくけれど、でも移ろう日々の中に新しい喜びも、忘れたい過去を忘れなくてもいいのかもしれないという改めも訪れる。世界はこうして、止まることなく動き続ける。

そうやってなんとか日々を営んでいくけれど時々外を見つめてその果てしなさに敵わないやと笑う日が必要だ。小鳥のさえずりを連れてくる朝日にそれを見出す人も、昼間の真っ直ぐな太陽にそれを眺める人もいるだろう。だけど私は毎度丁寧に終わりを告げて明るく街を照らし出す夜を見上げてそれを想いたい。「自分の力ではどうにもならないこと」の最たる例である宇宙の、自然の摂理。私がどんなに今日の終わりを惜しんで泣こうと、明日への不安に打ちのめされようと、無関係に、あくまで規則的に夜は明ける。
そのことにどうしようもなく絶望してしまう人もいるのだろう。だけど私にとってはなぜだかとても救いになる。過ぎ行くこと、変わること、変わらないこと。どうしたって抵抗できない地球の営みに巻き込まれて、私たちは今日も朝を迎え、夜を待つ。そして夜を越して朝を迎える。

ごく自然に、なんの脈絡もなく、生きているなと感じた。この営みの中にいることが、夜が訪れて安堵の息を漏らすことが、こんなに尊いことなんだと思うと今この世界に私を繋ぎとめているのはやはり夜なんだと感じざるを得ないのだ。何か昼間を恐れるようなつらいことがあるわけでも、消えてしまいたいといつも思っているわけでもない。だけど私は夜が毎日訪れて、夜明けとともに去っていくから今を生きていけるのだと思う。掴めない今を、まぁいっか私には昨日があってきっと明日があると思って宇宙の動きに身を委ねる。こうして私は夜をまた好きになる。


本当はもっとある。もちろん散髪シーンは大好きだし、山添くんの家でポテチを食べる藤沢さんも、ソファじゃなくて床に座って作業する山添くんも、辻本さんとの電話を切った瞬間に焦燥に駆られた表情を浮かべる山添くんも、彼女がお医者さんにあれこれ聞くのを複雑な顔で見る山添くんも、正座してシャツにアイロンをかけながら後輩と電話して少し嘘をつく山添くんも、ソファや床に丸まって動かない藤沢さんも、車が来てないのに横断歩道を小走りで渡る藤沢さんも、ソファで膝を抱えてどうしようもなくなってしまう山添くんも、あんまんを食べながら並んで歩くふたりも、ヘルメットを前後逆に被っちゃう社長も、「男女間の友情が成立するかどうか」をどうでもいい、と言い切ってくれる山添くんも、「助けられることは、ある」という気づきも、それにピンと来ない藤沢さんも、全部愛おしい。
全部に共通する温度や湿度、光が照らす世界をこんな風に書き連ねる文字じゃ表しきれない。だから世界の記述はここら辺にしておく。本当に素敵な世界だ。現実にギリギリなさそうだけど、在ってほしい、そんな世界。


星月夜

私は松村北斗さんのオタクだから、彼の話を最後にする。
北斗くんは夜を背負うのが似合う。星に託すように願いをこめられた名前も、ステージで放つ輝きの奥に見える影も、星座の一員であることを何より誇る姿も、彼自身が星のようだから、その背景に描きたくなるのは夜だ。完全な暗闇なわけでは全くないけれど、無責任にこちらを照らすことのない、どこかマイペースな温度のある時間が似合う北斗くんが、山添くんを演じている。アイドルに憧れてアイドルを選び続けている北斗くんが、「普通」をこんなに丁寧に切り取った映画で、「夜明け」がタイトルに入った映画で、夜を越える人を演じるというだけでもうそれは途方もない奇跡で。
私は生憎芝居に精通していないし、そもそも人の表現を評価することが苦手だ。努力している人のその時の最善を観て良い方面の感想以外を言えないから(批評のはたらきは必要なのでそれを否定するつもりは毛頭なく、私が弱いだけ)。だけど北斗くんが演じる山添くんは本当にそこにいて、山添くんで、山添くんに命を吹き込んだのが北斗くんじゃなきゃ私はこんなに救われなかった。月並みな言葉だけど、北斗くんが演じる山添くんに出逢えて良かったと思う。なんてお芝居をする人なんだろうと思った。お芝居というかもうそこにいたのは完全に山添くんで、憑依とかとは違う、北斗くんにしか型どれない「山添孝俊」だった。

この映画の公開に際しての雑誌のインタビューで北斗くんはこう話している。

—真夜中は孤独で、先が見えない不安に覆われています。松村さんにもそんな時期はありましたか。
「人と比べてではないですけど、自分が思ったよりもそういう時期は多かったと思うし、きっとこれからもあるんだろうなという気はします」

—夜明けにはたどり着けましたか。
「たどり着けた、と思えた瞬間はありました。真っ暗だった視界がパーッと晴れて、朝の鳥が鳴いているような。たぶんその鳥はずっと鳴いていたんでしょうけどね。でも、自分にはその鳴き声に気づける余裕もなくて。やっとその余裕が生まれたんだなと感じられた日も確かにありました。けど、夜明けって本当に言い得て妙だなと思うんですけど、夜が明けてもまた次の夜がやって来るんです。何度かの夜明けと何度かの夜を繰り返しているような感じです」
—そんな夜明けを繰り返していくうちに、夜が怖くなくなったような感覚もありますか。
「どうだろうな。やっぱり夜は怖いというか、嫌ですよね。(中略:空手のお話)でも、真夜中にいたころと夜が明けたあとでは、全然違う自分になっていた。そういう経験を一度したことが自分のなかで大きな支えになっていて。どこにも進めないような夜がなければ、人は次のステージに上がることはできない。そうわかっているので、夜は怖いし嫌だけど、全然大丈夫って思っています」

T. 2024 WINTER No.50 より

「山添くんだ」と思う。「きっとこれからも真夜中の孤独がある」ことを受け入れている姿も、「自分には朝の鳥の鳴き声に気づける余裕もなくて、やっとその余裕が生まれたと感じられた日」があることも、それを言葉に出来ることも、「夜はやっぱり怖い、嫌だ、だけど全然大丈夫って今は思っている」ことも、山添くんを演じた人だなと思う。北斗くんが考えることと、北斗くんが山添くんのフィルターを通して感じたことと、私が北斗くんを眼差す中で、山添くんの日々を覗く中で、そして自分の日々の中で感じることが重なるような心地がした。私は夜が好きだけど、それでもやっぱり怖いし嫌になることもある。だけど大丈夫だと知っている。また朝が来るし、その時の自分は今ここで布団をかぶって震えている自分とはほんの少しでも違うから。だから大丈夫。お守りのようなその考えが北斗くんをも包んでいることが嬉しかった。

私はまだ朝の鳥の鳴き声に気が付けていない。気が付けた日もあったけれど、今は夜を越すことに必死になって鳥が鳴くころには疲れて眠ってしまっているからかも。だけどきっとまたその鳥の声を聴くことが出来るはずだ。
だから私はその日まで、星に想いを寄せて、夜を抱きしめて、その暗闇と静寂に身を委ねて、自分にはどうしようもない宇宙のおおきさにそっと目を閉じて夜を越そうと思う。

「夜明けのすべて」に出逢えて良かった。

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