自覚

タイは夏だった。飛行機を降りた瞬間から暑くて、タバコを吸うような気持にもならないままタクシーに乗り込んだ。
あのひとはわたしに、本当に来たんだ って言った。そんなん言われたらこっちだって、ほんとうにまたあるなんて思ってなかったよ。

ひさびさに見た執着はなんだか痩せていて、カタカナでもタイ語で会話していて、なんだか遠くなった気がした。もともと近かったわけでもないのに。
机の一段目のひきだしにコンドームが入っているのも、紙タバコを吸わなくなっていたのも、部屋のあちこちにサプリメントが散らばっていたのも、余計にそれを強く意識させた。
繰り返すけど、もともと近かったわけではないんだ。

休みの日はわたしと会う以外ゲームしかしないようなあの人がすきだった。
でもそれはただのボーナスタイムで、環境がそうさせていただけだ。あなたの瞳にはわたししか映っていないような気がしていたけれど、実のところ誰のことも映していなかった。それでも、すべてが終わったあとではせめてわたしがあなたの”不特定多数”のうちの”特定”になれていたらいいな、とか思ったり。

あなたに心を奪われた時点でわたしはあなたの前で表出させるための自我も失ったんだ。そう誓ったじゃないか、たった5年前の話だ。わたしはただあなたの存在を享受して、願わくばより近くで、あなたのまわりを飛ぶコバエにでもなってあなたを観測したいとだけおもっていたのに。それだけでは満たされなくなってしまったのは、半分以上はわたしのせいだけどあなたのせいでもあるよ。

むかしみたいにうれしいかってあのひとが聞くから、わたしはそれをかみしめざるを得なくて、幸せかって聞くから、意識せざるを得なかった。
でも、ほんとうは、むかしみたいな日常と非日常感がほしい、もう一度。
帰り際にあのひとが、帰国したら一年だけ仕事を続けて以降は生まれた県で過ごすっていうから、その一年間は一緒にいられるのかなとか思った。タイよりは近いけど東京からは飛行機の距離の県だから、また会えなくなるのかな、とも思った。そんなわたしの心の動きも見透かしたようにあなたがたまには来てもいいよっていうから、うれしかった。

でも事実、あの人は誰にも興味がなくて、だから誰にでも同じくらい優しい。そんなの今更どうしようもないじゃないか。わたしがすべきことはお金をかせぐこと、そうすればきっとより長い間あの人の近くにいられるから。

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