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235.「さんげ」と「案じ」は全然違う


はじめに


「さんげ」と「案じ」が混同してしまっている人って多いのでは?

病気になったり、問題が起こってきた時に「さんげ」しているつもりが「案じ」てしまっている人が多いんじゃないかと、お風呂の中でふと思いつきました。

「さんげ」と「案じ」の違いを感覚的に理解している人は多いかもしれませんが、ロジカルに言及してるもの(書籍等)を僕は知りません。
(あったら教えて下さい)

でもこれって、信仰する上どころか、生きる上でめちゃくちゃ重要なポイントだと思うんです。

ということで、「さんげ」と「案じ」の違いが、なぜめちゃくちゃ重要なのかということについて、現時点の僕の考え書いていこうと思います。



「さんげ」と「案じ」


まずは「案じ」の意味について、天理教辞典に書いてあるものを紹介したいと思います。

案じ
原典の用語。「おふでさき」では、表記は「あんち」「あんぢ」。案じ。案じる、あれこれ心配すること。
(1)親神が人間の行く末を案じる。
にんけんの わが子をもうも をなぢ事
こわきあふなき みちをあんぢる(ふ7:9)
ふ8:63、11:49も同じ。
(2)人間が案じる。この場合、ほとんどが親神のなさることゆえ、案じてはいけない、と言われる。
いまのみち 神のせきこみ うちなるハ
あんぢないぞや しかとみていよ(ふ4:96)
これからハ をやのゆう事 しいかりと
しよちしてくれ あんぢないぞや(ふ15:9)
どのようふな 事をしたとて あんぢなよ
なにかよろつわ をやのうけやい(ふ15:52)
ふ2:38、12:56,71、14:84,86
この場合、身上(みじょう)のさわり(病気・怪我など)も事情のもつれも、親神のなさることゆえ、案じてはいけない。
どのよふな さハりついても あんぢなよ
月日の心 ゑらいをもわく(ふ11:3)

天理教辞典には、
「神様が案じるパターン」と
「人間が案じるパターン」の
二つがあると書いていますが、今回取り上げるのは
「人間が案じるパターン」です。

そして天理教辞典に「案じる」の意味として書かれているのは、以下の3つです。

・あれこれ心配すること。
・ほとんどが親神のなさることゆえ、案じてはいけない、と言われる。
・身上(みじょう)のさわり(病気・怪我など)も事情のもつれも、親神のなさることゆえ、案じてはいけない。

このように、基本的に「案じる」ことは良くない事として書かれています。

続いて「さんげ」は、何と書かれているか見ていきます。

さんげ
元来、仏教用語で罪の許しを請うこと。キリスト教でも同じ意味に用いられて懺悔と記し、「ざんげ」と言う。古くは一般に「さんげ」と発音し、天理教では「おさしづ」にこの語が見られ、単に過去の罪を悔いると言うのではなく、過去の反省と同時に将来への心の治め方や、さらに心の決断に止まらず、実際行動に表すことまでも指して「さんげ」と言う。つまり、積極的な信仰的実践の契機をつくる教語となっているのである。
 上に述べたことは、次の「おさしづ」により明らかに示される。
「これまでのさんげは言うまでうああろうまい。見えてさんげ。後々の事言うまでや。これから生涯先の事情定めるのがさんげ。」(さ25・2・8)
「さんげだけでは受け取れん。それを運んでこそさんげという」(さ29・4・4)

「さんげ」とは、過去の心遣いを反省するだけでなく、心を入れ替え、更には行動に表すことまでを指すようです。

天理教辞典によると天理教の「さんげ」と仏教・キリスト教の「懺悔」は意味が違うようです。
また、天理教辞典に書かれている意味以外にも、
さんげ(懺悔)の契機が、
「神が主導か」(天理教)
「人間が主導か」(仏教、キリスト教)
といった違いもあるように思いますが、
そもそも仏教とキリスト教は専門外なので、これ以上突っ込むことは止めておきます。
(他宗のことはビビって手が出せません)



「さんげ」と「案じ」を比較する


天理教辞典に書かれいる「さんげ」と「案じ」を比較すると明らかに違う点が一つあります。

それは、
「さんげ」は「反省+行動」
なのに対し、
「案じ」は「心の動きだけ」
という違いです。

様々な病気や問題が起こってきたときに。
「なんでこんなことになったんだろう」
「これからどうなるんだろう」
ウジウジ悩んで行動出来ないこと。

これが「案じる」ということだと思います。

対して、

「自分のこんな心遣いがいけなかったのか。」
「神様申し訳ありませんでした。行いを改めます」
反省し、神様にお詫びして行動を改めること。

これが「さんげ」ということになります。

つまり、「さんげ」と「案じ」の違いは、
「行動が伴うかどうか」
という事が見えてきます。






ここまでが前振りです。(長すぎる)




この前振りを経て、今回僕が一番言いたいことは、
大切なのは「さんげ」と「案じ」の違いが分かることではなく、

「なぜウジウジ悩んで行動できないのか」
「なぜ神様にお詫びして行動を改める事ができるのか」

こういった、
「さんげ」や「案じ」に至る契機。
つまり、
病気や問題が起こる前の心の動き。

これが大切になってくるということです。


神様を信じ切れるかどうか


病気や問題が起こってきた時、「さんげ」できるか「案じて」しまうかの別れ道になるのが、

「神様を信じ切れているかどうか」

だと思います。

更に突っ込んで、何を信じ切ればいいかというと、

「神様が人間を陽気ぐらし世界へと導いて下さっていると信じ切れているかどうか」

これを信じ切れるかが、「さんげ」と「案じ」の別れ道になります。


この神様を信じ切るとことについては、
愛町分教会初代会長関根豊松氏(以下関根氏)
の言葉が素晴らしく、かつ分かりやすいので、いくつか引用したいと思います。

「私は成ってくるのが神様と思っていますから、神様のなさることならどんなことでもやりきっていくという腹ですから、他に考えはありません。その精神ですから楽に通れます。」
「神様にもたれきって通っていく以外道はないんじゃないですか。その方がお道は楽じゃありませんか。なんでも神様にもたれて、神様にお任せして成ることを喜んでいればいいんですよ。一番楽ですよ」
「神様がかまってくれないのは、神様を本当に信じることができないんです。本当に信じて神様にもたれて、できるもできなくても神様のなさることなら喜んで受けて通る心になったら大丈夫です。」
「神様に頼っていくしか心を使いませんからね。成って来ることは神様ですから、そうと知ってしまったら何も心配することはないですよ。心配するようなことは神様が出してくれません。何でもなんでも喜んで受けていますから楽です。」
「良くても、悪くても、神のことだったら、地べたに座れといわれたら座っていればいいじゃありませんか。そこまで投げ打っていたら、ちょっとも心配することはありません」

これらは、
関根氏と常岡一郎氏の対談から一部抜粋したものです。
(ちなみに、関根氏の対談録は、この常岡氏との対談しか存在しないそうです。)


関根氏の神様を信じ切る心には「案じ」は存在しません。

神様のなさることを、何でも喜んで受ける心。

この心こそ、天理教の「さんげ」だと、僕は考えます。


病気や問題が起こってきた時に、今までの心遣いを反省することになります。

しかしその根底に、神様が自分(人間)を幸せにするための親心があるのだと知っていれば、反省より大きな、感謝と喜びが沸き上がってきます。

おさしづにも
「たんのうは前生のさんげ」
とあります。

たんのうとは、どんな時でも揺らぐことの無い
「喜びの境地」です。

これは前生だけの話しでなく、
今世のことだって、たんのう出来れば、それはさんげになると思います。

「たんのう」と「たんのうは前生いんねんのさんげ」については、過去に書きましたので、ここではこれ以上書きません。
(「たんのうは前生いんねんのさんげ」については、今回かなり加筆、訂正しました)


楽な生き方をしよう


神様を信じて通る事は、
「大変なこと」
「しんどいこと」
だと勘違いしている方が沢山居ますが、そんな事は全くありません。

関根氏も、神様を信じて通ることが
「一番楽です」
と言い切っています。

僕も、まだまだ成人が足りないひよっこであるにも関わらず、神様を信じて通ることが一番楽で、幸せになれると確信しています。

これは理屈じゃない、信仰の境地です。

そして、
神様を信じで通ることが一番楽だとすると、

「神様の事を知っているのに、信じる事が出来ない状態」
つまり、
「案じている状態」
これが一番しんどい状態かもしれません。


では、
一番楽な状態になるため、
神様を信じるためには、
一体どうすればいいのでしょうか?


答えは単純で、


神様を好きになればいいんです。


自分の好きなものって信用していますよね。

好きな監督が作る映画は絶対見に行くとか、
好きなグループの新曲は必ずチェックするとか、

例外はあるかもしれませんが、基本的に「好き」と「信じる」は比例していると思います。


では、どうすれば神様を好きになるのでしょうか?


これは、おふでさきに答えが書いてあります。

このもとを くハしくきいた 事ならバ
いかなものでも みなこいしなる 1-5 

この元を詳しく聞いたら、どんな人でもみんな神様の教えが恋しくなるんです。

ですから、
「神様を信じられない、好きになれない」
という方は、神様の教えにもっともっと触れてみて下さい。

きっと恋しくて堪らなくなると思いますよ。


おまけタイム


どーも!日常的にジョジョ立ちなんてしてる奴はいないと思う男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

先日ある方から、

「日常生活で知らない間にジョジョ立ちになってる瞬間ってありますか?」

という質問を受けて、そんな瞬間あるわけないと思っていたのですが、嫁に確認を取ったところ、

「もしかしたら、ジョジョ立ちっぽい瞬間はあったかもしれない」

と言われましたので、僕が無意識的にジョジョ立ちしている瞬間を、何枚か隠し撮りしてもらいました。




まず1枚目がこれです。


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僕が冷蔵庫から飲み物を取ろうとしているところです。

確かに言われてみれば、ジョジョ立ちに見えなくもありません。


画像2

出典
https://www.pinterest.jp/pin/725924033674704697/

※画像は適当に拝借


しかし、これをジョジョ立ちというには、あまりにもクオリティが低すぎます。

こういう風に冷蔵庫の飲み物を取る人も、探せば結構居ると思うので、たまたま似ていただけでしょう。


2枚目

画像3

歯を磨いてる時です。

普通に磨いているだけなのですが、この立ち方に似ていると言われました。

画像4

出典:Amazon

※画像は適当に拝借


これは全然違いますよね。

そもそも顔の前にある手が右手か左手かも違います。

下のジョナサンのフィギュアでは左手で顔を隠していますが、僕は右手で歯を磨いています。

似ても似つきませんね。


3枚目

画像5


これは、さっき冷蔵庫から出したお茶を、JOJOタンブラーに入れて飲んでいるだけのシーンです。

これがジョジョ立ちとは、言いがかりも凄いと思うのですが、探してみると、たまたま、ほんと奇跡的に似たようなポーズを見つけました。

画像6

出典:https://ciatr.jp/topics/317929

※画像は適当に拝借

いや、腕の角度違うじゃん!

もっと身体と並行にしなきゃダメだし、キラークイーンの良い感じが出てないよ!


こんなのただお茶を飲んでるだけです。


ということで、
「日常生活で知らない間にジョジョ立ちになってる瞬間ってありますか?」
という質問に対しての答えは、


普通に生活しててジョジョ立ちなんて一切やったことありませんし、ジョジョなんて知りません。

たまたま似てただけです。

ジョジョって何それ美味しいの?状態だという事をお伝えして、今日は終わりたいと思います。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!






サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!