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平和の鐘と唱題 745 蔵本千夜『BattleScar』

■2024(令和6)年8月17日 745 蔵本千夜『BattleScar』
(動画の2:37~)

 つい先程まで、私はある一冊の漫画を読みふけっていました。昨日8月16日に発売された『BattleScar』(蔵本千夜/KADOKAWA)、標題は「戦闘の傷跡」とでも訳すのでしょうか。作者の蔵本千夜さんは私は知らない方でした。

 本書には三つの短編漫画が収められています。それに共通するのはただひとつ──ロシアによる侵略を受けたウクライナの人々の身に起きた出来事を描いているということです。一話目「シノビ」は、ウクライナ国民を守るためにロシアと戦うのだけれど、ロシアの圧倒的な攻撃力の前に次々と人々を死なせてしまう、兵士の物語。二話目「アリョーナ」は、ロシア軍による性暴力、「おとなしくしたら家族は見逃してやる」と言われて暴行を受けた若い女性の物語。三話目「マーチャ」は、父親がロシアと戦うために出兵し、残された家族と共に暮らしている幼い少年の、最後の姿。

 三話目は以前にTwitterに掲載されていたのを読んだことがありました。その時にも(現地で起きていることをここまで克明に描いているすごい漫画があるなあ)と思いましたが、他の二作も含めて、それぞれに強い印象を受けるものでした。そして大事なのは、この三つの話が全て現地ウクライナに取材して、実際にあった出来事を元に描いているということです(第三話は一枚の写真を元にした創作と明示されています)。

 読了直後の今、最も印象的なエピソードを挙げるならば、二話目「アリョーナ」の一場面です。次々と輪姦するロシア兵たちの一番最後に、おそらく若い兵士が目に涙を溜めながら「……ごめんね、しないと酷い目に遭わされるから」と言って暴行に加わりました。

『BattleScar』83頁

 ロシア兵皆が蛮族であるわけではない。しかし、暴力で支配された軍隊という人間関係の中で、嫌なことでもやらなければ自分が殺される。だから暴行する。ロシア軍がそのような状況にあり、そのような個々の兵士たちが、平和であった筈のウクライナで、とてつもない惨劇を繰り広げている。そのことを強く印象づけるエピソードであったと思います。

 後に主人公は妊娠が発覚し、出産します。この子がロシア兵たちに似るのではないかと恐れた瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは、一番最後の若い兵士の顔でした。

 彼女が想起したのは、なぜ、他の兵士たちではなかったのでしょう。なぜ、唯一善性の片鱗を見せた若い兵士だったのでしょう。おそらくそれは、彼だけがその場で「人間」だったからです。他の蛮族たちは人間ではなかった、言葉も心も通じる相手ではなかった。主人公の怒りも憎しみも恐怖も全ての感情は、唯一「人間」を感じる瞬間のあったあの若者に向けるしかなかった。だから、恐れたのです。彼も、自分も、この赤ん坊も人間だから。弱さも醜さも暴力も、誰の心にも生まれる可能性のあるものだから。

 自分はこの子を愛せるだろうか──悩んだ末に彼女はある選択をします。それは本書で御覧ください。

『BattleScar』108頁

 日本では、大きな出来事がなければウクライナのことをニュースで見掛けることも多くはありません。意識して観ていなければその他のニュースに紛れて、いつしか「ああ、まだ戦争やってるんだな、早く終わらないかな」ぐらいの軽い気持ちになって、私たちは目の前の平和をのどかに生きているかもしれません。

 しかし、まさに今この瞬間にも、戦地では一人一人の人間の数だけ、こうした苦しく辛く悲しい出来事が繰り広げられているのです。私たちがそれを忘れたなら、目を背けたなら、彼ら彼女らの絶望はいかばかりでしょう。

 侵略戦争などしてはいけない。ロシアは兵を引き、ウクライナに賠償せよ。国際社会が揺らぐことなくその意思をもって、行動すること、それが未来の悲劇を防ぐために必ず必要なことなのです。

 どうか皆さん、機会があればこの『Battle Scar』を手に取って、読んでみてください。ウクライナで起きている出来事、侵略戦争の愚かしさを知るための、素晴らしいコミックです。


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