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以信代慧のこと

 このnoteは、僧侶として、しかし気負わずに、「人間」についてあれこれ書こうと思っている。

 それでもひとつ、記事執筆の目的がある。将来まとめたい『以信代慧の人間論──科学と宗教、智慧と信仰』に関連する着想や読書記録だ。

 「以信代慧」は日蓮聖人『四信五品抄』に出てくる言葉で「信を以て慧に代う」と読み下す。「信じることが智慧の代わりになる」ということだ。

 仏教は「智慧の宗教」といわれる。世の中の理法(ダルマ)と、それを認識する人間。その関係の中で人の苦や楽が生じ滅すること、そして、苦を滅し楽(苦を離れた状態)に至るための修行の道を指し示すことが、二千五百年前のお釈迦様の説かれた教えの骨格だ。ダルマを認知し、生命であるが故に生まれる人の心の欲望(タンハー)を覚知し、知性のレベルではなく情動のレベルでタンハーを離れダルマに即した生き方をする。そのように人間と世の中の関係をありのままに観て受け入れる(如実知見)ことが智慧であり、智慧を獲得する技術が仏道修行だ(ちなみにその技術の違いが宗派の違いと私は捉えている)。つまり、仏教は智慧を求める道なのだ。

 では、以信代慧、「信を以て慧に代う」という発想が、何故生まれるのか。

 日蓮聖人の宗教の根本的な人間観は「末法の時代を生きる私たちは例外なく愚かなのだ」という事にある。末法、つまりお釈迦様がお亡くなりになって二千年以上が経過した時代の人々は、お釈迦様の時代を生きていた仏弟子たちとは機根(能力・性質)が異なり、智慧を獲得する瞑想修行には耐えられない。しかし、そのような末法の人々のためにお釈迦様が残された教えがある。それが法華経であり、心が顛倒した愚かな者も心の底から仏様を信じ憧れることで良薬を飲み病を癒やすことができるのだ、と法華経は説く。智慧を得られない者も、信心を智慧に代わるものとして苦を滅し楽に至る。そのような法華経の核心を日蓮聖人なりの言葉で表したのが以信代慧ということだと、私は捉えている。

 さて。信じることが智慧の代わりになる、そんなことはあり得るのだろうか。

 関連して私が関心を寄せるのは、西洋由来の科学の思考、そして、近年の反知性主義の動向だ。科学は「物事をありのままに観る」という点で仏道と親和性が高い(科学が実証手続の厳密さに基づく社会的体系であるのに対し、仏道は一人一人の人間が悟りを実現するプライベートな修行である点は異なる)。現代社会は科学技術によって支えられている。しかしその一方で、「論理的に正しい説明」よりも「情緒をゆさぶる説明」が多くの人の心を掴み、惹き付け、「信じ」させる反知性主義が、いつの時代にも常にあった。近年の国内・国際社会にその事例はいくらでも見出せるだろう。それは、科学や合理で全てを割り切ることのできない、末法の衆生のありのままの姿だ。

 そう、「物事をありのままに観る」ことは、人間の有り様にも当てはまる。人の知性や理性には限界がある。人は情動で動き、後付けでその理屈を生み出す。それは私たちが拭い切れない愚かさの構造なのだと思う。

 智慧の代わりになる「信じる」こと。科学に反する愚かさとしての「信じる」こと。信ということを巡って、ポジティブとネガティブ、ふたつの視点がある。その異同を明らかにすることが『以信代慧の人間論──科学と宗教、智慧と信仰』の目論見だ。

 こうした思考のためのメモ書きとして、このnoteを使っていきたい。

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