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恋愛と信心

 昨日まで、信心という人の心の働きを巡る若き日の思考と経験の記録として、メールマガジンの過去ログを転載した。【注:現在は非公開】

 あれから20年。相応に歳を取り、また、住職として僧侶の道に復帰をした。少なくとも月に二回、定例祭の場で檀信徒に向けて御法話を行っている。

 法華経寺は島根の片田舎の小さなお寺だが、信行の道場として半世紀にわたり法燈を護ってきた。檀信徒向け御法話は信心を共にする人に向けての内容なので、信心を共にしない人にとって、信心の話は少し身構えてしまうだろう。それ自体は、良くも悪くも仕方のないことだと思っている。

 信心は極めてプライベートな具体性を持つ(例えば私にとっての南無妙法蓮華経)。その具体性は、必ずしも他の人と共有できるものではない。その一方で、信心という人の心の在り方は、決して少数の特異な心理ではなく、多くの人が何らかの形で自分自身の内に認めることができるものだ。その辺りのことを、メールマガジンでは次のように表現している。

■メールマガジン「電子説法一日一話」 平成十二年七月十八日 通番0064号

【読者からの手紙/宗教批判の在り方(5)】
 人は恋愛をする時、特定の異性に対して、他の異性では代え難い愛情を持ちます。それはしかし、「人は人と恋愛をする」という普遍的な仕組みの上に現れたものです。人は自分自身の家族や友人と共にいるときに安らぎを感じますが、その具体的経験は、「人は誰でも自分の家族や友人と共にいることが幸せだ」という普遍的な共感能力を培います。「人は誰かを愛する」という普遍性と、「私はあなたを愛する」という具体性。この両者は決して矛盾するのではなく、ひとつのことの表裏なのです。
 前述の宗教否定論者の過ちは、「信仰をすること」が「他人に自分の信仰を押しつけること」と必然的に結びつくと考えたことにあります。それは「命題Aが真ならば命題Bは偽である」というような機械論で人間を捉えようとする過ちです。人が具体的な宗教を信仰するということは、決して排他的論理に組み込まれることではなくて、「人は信仰を持つ」という普遍的な真実に、その人なりの具体性で関わってゆくことなのだと私は思うのです。

 この考えは、今も変わっていない。違う人格、違う魂、違う人生、違う価値観を持つ人と人とが共に生きるのが、私たちの社会だ。その社会が、闘争や混乱ではなく調和と慈しみで満たされるのは、多くの人がこうした感覚を無意識にでも持っているからだ。逆にいえば、人々が普遍性を見失い、具体性の違いが分断と対立を生み出す時、混沌が社会を満たすことになる。

 例外なくあらゆる人の救いを説いた法華経は、その信心の在り方を「咸皆懐恋慕 而生渇仰心……一心欲見仏」と表現し、子が親を憧れ求める感情の譬喩で説明した。多くの人が、他の誰のものでもない自分自身の人生の中で、それぞれの具体性として経験してきた恋慕の情。毒気深入し心が顛倒した子供たちが救われる唯一の道が、そこにある。

 以信代慧、信心が智慧の代わりとなる境地のヒントのひとつは、この辺りに求めることができると考えている。

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