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北海道人のルーツ8 開陽丸沈没

 開陽丸沈没

22日、追撃する榎本軍が熊石村に到着すると、松前徳広ら男女60余名は既に本土の弘前藩へ落ちて行った後でした。
残存の藩士ら300名が榎本軍に投降。


熊石は江戸時代当初松前藩領の最北部でした。

熊石は松前藩領の最北部でした。その当時の歴史が「失われた風景」に入っていましたので、合わせて読んでください。

松前徳広らは11月24日には弘前藩領の薬王院に逃れますが喀血して倒れ、11月29日に死去。享年25歳。
明治3年(1870年)10月、長勝寺に仮葬した遺骸を菩提寺である松前の法憧寺へ改葬されました。長男・修広が幼くして松前藩主を継ぎます。


江差に逃れた松前藩軍を攻めるために、榎本軍の主力軍艦開陽丸が派遣されましたが、江差の松前藩兵は既に退却済でした。
同夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽丸は11月15日に座礁。
開陽丸は数日後に沈没。これにより榎本軍は頼みの海上戦力を大きく減らすこととなり、新政府方の軍の上陸を安々と許すこととなります。


明日金曜日の「北海道ゆかりの人たち」と土曜日の「北海道の岬めぐり」は
お休みさせていただきます。


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