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観光客が行かない豊浦(とようら)巡り・前編
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カムイチャシ史跡公園(豊浦町)
豊浦町の海岸線を走ってみました。
豊浦町を通る国道37号は虻田~長万部まで礼文華峠、静狩峠と山岳地帯を走るので、山々の間から海がチラッとしか見ることができません。
豊浦海岸は蝦夷の時代には難所中の難所といわれたところです。
ところが昭和に入ると、その難所が逆に観光地となりました。
このような所は全国にもあります。今は海水浴の基地として整備されています。
この海岸沿いの一角に「神のとりで」と崇められたカムイチャシ史跡公園があります。これは一見の価値があります。
アイヌの砦がそのまま残されており、135段の急な階段を登っていくと今は公園になっています。その先端まで行くと、大きく広がる噴火湾を一望できます。
この公園は国指定の景勝文化財「ピリカノカ」に指定されています。
カムイチャシ史跡公園の突端から描いた絵があります。
観光客が行かない豊浦町の旅
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豊浦(とようら)町は胆振総合振興局の最も西に位置しています。
豊浦名の旧地名は「弁辺」(べんべ)でした。「べんべ」とはアイヌ語のペウンペ(水・ある・ところ)の意味です。
昭和7年に「べんべ」ではごろが悪いとして「豊浦」に改名。
豊浦とは「農産、水産が豊かな内浦湾に面している」ところからです。
豊浦町の西隣は渡島総合振興局北部の長万部町で、ここが道央と道南の境になります。
豊浦町の人口は、3,800人(2020年7月現在)でイチゴとホタテの産地として知られています。また、ボクシングの内藤大輔の出身地で、「道の駅とようら」には大場選手の紹介がされており、豊浦ふるさと大使に任命されています。
礼文華(れぶんげ)山道
明治のころまでの礼文華~静狩峠の海沿いは、崖が垂直に切り立っており、人も獣も海沿いを避けて山越えをしなければならない難所でした。
明治時代に開拓使がケプロンの提案で札幌本道(札幌から函館)の開削をおこないますが、この峠を避けて室蘭から森町までは航路としました。
明治10年、イギリスの女性探検家イザベラ・ルーシー・バードがこの「礼文華山道」を越える旅の記録があります。「峠の距離は15キロ。馬に乗っても一時間に一マイル(1.6キロ)」急峻な断崖が続くため、峰を歩くことでしか通過できないという記録がある難所でした。
豊浦のはじまり
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明治9年、礼文華に官設駅逓が置かれ、斎藤義重が取扱人となり漁場で漁業も営んでいました。
明治14年、大岸地区に山本忠之助らが伊達から移住し、明治20年には太刀川善五郎がオフケシ川流域に貸し付けを受け小作を入れて開墾。同じころ桜地区に採木のため入った田中幸十郎は肥沃なことを知り、故郷の越前で移住を勧め笹出清右エ門らが移住してきました。
明治41年、山梨団体93戸、翌年にも106戸が入り農業が急速に発展します。
豊浦に鉄道が開通
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昭和3年、鉄道省長輪線の「静狩駅 – 伊達紋別駅」開通に伴い弁辺駅(べんべ)として開業。
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昭和和6年4月1日、長輪線を室蘭本線に編入、それに伴い同線の駅となり、昭和10年4月1日豊浦駅に改称。
昭和6年6月5日、与謝野鉄幹・晶子夫妻が車窓から海岸の景色を眺めて随筆を書いています。
この海岸を斉藤茂吉、伊藤整なども訪れ、今は文学碑公園となりました。
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