蝦夷の時代35 シャクシャインの戦い8
国縫川は海が近いだけに川を渡らなければ前に進むことはできません。
その川向こうに、丸太の柵や矢避けが連なっていたのです。
更に、後方には砂金場を急ごしらえにして館が見えたといいます。
川幅は180mあまり、矢はとどきませんし、橋もかけることができません。
正面攻撃はとても難しく、シャクシャイン軍の幹部作戦会議となりました。
隊を二つに分けて、1隊はここにとどめ、あとの一隊は山を越えてヨイチ(余市)のハチロウエモンアイノの勢力と合流し、西蝦夷側(日本海側)から松前を襲う。
松前は兵を国縫に向けているため手薄、そこをヨイチ勢との合流部隊が攻撃し福山城(松前城)を奪う。
異変を知れば国縫陣は松前奪還に向かうだろう。
そこで残った一隊がこれを追い松前を奪った一隊と呼応して挟み撃ちにするという作戦でした。
決断が下されました。
ヨイチ(余市)まで120キロ。
通常ならば3日の行程を夜通し走り、朝には羊蹄山山麓を流れる尻別川に達していました。
夕刻にはハチロウエモンアイノに会見。
彼は和人の血をひいていますが、魂はヨイチアイヌの総首長に相応しく誇り高かったのです。
2日後の早朝、800人近い手勢はオタスツ(小樽)に到着し、シャクシャインの別働隊との合流を計ろうとしました。
ところが、太陽が真上にさしかかっても別働隊が現れません。
イブリ(胆振)のペンケ沢で待ち伏せに会い別働隊は合流を断念していたのです。
難を逃れた半数が国縫に引き上げていました。
策が漏れていたのです。
アイコウインの手の者が松前の侍たちを手引きして、半数の約700人が鉄砲の襲撃で殺害されました。