観光客が行かない上富良野巡り
「上富良野町」
世帯数5,244世帯 10,188人 (令和4年3月末現在)
富良野と名前の付く自治体は4つあります。
旭川から国道237号を南下すると美瑛町があり、上富良野町・中富良野町・富良野市・南富良野町となります。
それぞれの町の境界が気になります。というのは、富良野といえばラベンダー=富田ファームなのですが、富田ファームはどの町にあるのかということです。
菅野ファームのあるところは美瑛町と上富良野町の境界です。
また、ラベンダー発祥の地は上富良野町で、富田ファームは後発で中富良野でした。
倉本聰の「北の国から」は富良野市で、高倉健の「ぽっぽや」のロケ地は南富良野町です。
松浦武四郎の文章は安政五年(1858年)幕府御雇となった時に書き留めた日誌です。蝦夷地内陸部の山川地理調査を目的として、石狩からチクベツ(現在の旭川市)を経て美瑛川筋を上って空知水源に入り、上富良野を通って十勝へ向かう途中(4月23日)、フウラヌイの川を越えて上富良野町の日の出地区とおもわれるレリケウシナイという小川の縁で一泊した場所です。
現在「日の出公園」となり、アウトドアーの一大施設となっています。キャンピングカーで来道して三~六か月滞在する人もいます。
十勝岳噴火
大雪山系の中で十勝岳連峰は、主峰十勝岳(活火山)2,007mの他、富良野岳・三峰岳・上富良野岳・上ホロカメットク山・美瑛岳・美瑛富士と2,000m級の山々が連なっています。
大正15年(1926)5月24日。2度にわたる大規模な水蒸気爆発によって火口が崩壊し、周囲の積雪を急速に溶かしながら大泥流となって山麓の集落を襲いました。そのスピードは驚異的で、2回目の爆発では1分未満で火口から2.4kmの鉱山事務所に、25分余りで25㎞先の上富良野原野に到達。死者・行方不明者144人という大災害となりました。
昭和37年(1962)にも大規模な爆発的噴火が発生。死者5人・負傷者11人の被害となりました。
上富良野の人たちは、その都度、開拓前の姿に引き戻されました。
「泥流地帯」三浦綾子
「外は闇だった。星光一つ見えない。まるで墨をぬったような、真っ暗闇だ」と物語ははじまります。
「土の館」
この町には農業の大切さを伝える無料の博物館があります。
農業地帯をドライブすると農家の倉庫や畑の中に「白いプラウ」を見かけることがあります。農機具トップメーカー・スガノ農機です。
大正6年、菅野豊治が菅野農機具製作所を創業したのがはじまりで、今は茨城に会社は移りましたが「土の館博物館」が創業地に建てられています。
「土の館」は平成16年に北海道遺産に選定されました。
北海道に初めて導入された鉄車輪トラクターを含め世界各地の「トラクター」が並び、当時の写真やパネルも豊富に展示されています。ニ階の踊り場にかけられたモノリスも興味深いものです。これは十勝岳泥流地帯のものを展示しています。十勝岳の噴火は美瑛川、富良野川を一気に駆け抜け、上富良野を呑み込みました。その影響を受けた層は鉱毒が強く、今でも草花が生えません。噴火の凄まじさがよく分かります。階段を上っていくと、自動で説明テープが流れ当時の貴重な映像も流れます。
ラベンダー発祥の地
昭和23年に曽田香料(株)の委託栽培で始まったラベンダーは、ピーク時には全国生産の80%を占めていました。その後、合成香料の台頭で減反が進みましたが、昭和50年代からは観光資源として注目を浴びるようになり、今では加工品も作られています。
かんのファーム
富良野の地名由来はアイヌ語のフラヌイ(huranu-i ニオイのするところ)で、富良野地区で富良野市の上にある地形によるものです。
明治30年三重県から入植し富良野村が設置。明治36年、富良野村南方を分割し下富良野村(現在の富良野市)を置き、富良野村を上富良野村と改称。
上富良野は北海道のほぼ中央部に位置し、北から東にかけて美瑛町と新得町(十勝総合振興局)、南から西にかけては富良野市と中富良野町に隣接しています。
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