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観光客が行かない留萌巡り・前編


        留萌市 人口18,672人(令和6年1月)


留萌振興局(旧留萌支庁)は留萌市にあります。
南は増毛町から北は幌延町まで1市6町1村あり、すべて日本海に面しています。
北は豊富町・稚内市になります。
留萌市を訪れた時に一枚のイラストで描かれた町の案内がありました。


オロロンまっぷ・留萌市


初めて訪れる人にも分かりやすく、建物の絵や何屋さんかも丁寧に手書きで書かれており親しみを持って持ち歩きました。
カーナビも便利ですが、やはり一枚は一目瞭然なので位置関係や道路も頭に入り安心して街を楽しむことができます。
この案内図は留萌観光連盟(エフエムもえる内)で制作したものでした。
JR留萌駅の2階にあります。(すでに留萌本線は廃線となり今は廃駅です)
たしか、地元の人がUターンで戻ってきて留萌の活性化のためにエフエムを立ち上げたと何かで読んだことがありました。
これは実に楽しいイラスト街案内でした。
ところが、このイラストは留萌市だけで終わりませんでした。
地図の右上を見ると「7/8オロロンまっぷ」と書いてあります。
増毛に行っても小平に行っても、幌延に行っても、その町のがあるではありませんか。
更に、驚くのは全部つなぐことができて「留萌管内」を一目瞭然となっているのです。
これにはたまげました。

留萌のアイヌ

かつてルルモッペといわれた留萌が漁場として開けたのは、1787年ころと言われています。

1807年には300人のアイヌが住んでいました。
この地には由緒ある家筋で裕福なアイヌたちが住んでいたとされ、中でも有名な酋長コタンピルは留萌から小平(おびら)まで勢力圏がありました。
資産家で大陸との交易も行っていたといいます。

海のふるさと館

海のふるさと館

黄金岬付近のかつては日和山やのろし台として使われていた高台上にあります。1階の常設展示室にはニシン漁で栄えた留萌の歴史などに関連する所蔵品350点が展示されており、コタンピルや北前船に関する遺品などのレプリカが展示されています。

留萌の歴史では、留萌場所の請負人栖原(せいはら)角兵衛は、紀州有田郡栖原村の出身の6代目で、家運が傾き、明治28年に北海道を引き払うまで5代で130余の千石場所を育てました。
2階には展望ラウンジやレストランがあり日本海を展望できます。

留萌港は留萌川河口の自然港です。ニシンや塩サケ・塩マス等が北前船で本州へと積み出され、明治20年頃には輸入取扱高で道内9位という商業港でした。
その後スコットランドの港湾技師メイクの提言を受け、留萌発展のために港湾建設を明治43年に着工し、昭和8年に完成しました。

留萌湾

市街は留萌港を中心に発達し、木材・農産物の集散地となっており、外国船も出入りする国際貿易港となりました。


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