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観光客が行かない北海道道740号巡り・後編

せたな町大田区の旅
北海道で一番危険な神社 

太田神社に上る階段入口

日本海に面した30軒ほどの小さな集落に、15世紀の中ばに建てられた神社があります。

古くから航海の守り神として信仰されてきた太田山神社で、45度の急勾配の石段、ロープを掴みながら登る険しい山道、さらに90度の絶壁を、鉄鎖を使っておよそ7メートル登らないと本殿には辿りつけません。
それだけでなく、地上の鳥居入口には「まむしに注意」とある修行の神社です。

ロープだけは触ってみました。

太田神社は太田山(485m)の険しい断崖絶壁の頂にあり、北海道最古の山岳霊場として知られていました。創立は、嘉吉年間(1441~1443年)といわれ、亨徳3年(1454年)松前藩の祖、武田信広が太田に上陸した際に太田大権現の尊号を賜ったと言い伝えられています。
以来、航海の安全と霊神の加護として信仰されていました。
例祭の日ともなれば、多くの人が村を訪れ、海が時化、雨が降れば岬の獣道は危険で亡くなる人も多かったといいます。

幕末に、岡山から修行で蝦夷に上陸し、北上して来た定山坊(後の定山渓温泉創設者)が地元の者と道を開削します。この時に、探検家松浦武四郎が通りかかり、修行方々定山坊の働きに感心し、箱館奉行に戻った時に報告をして記録に残っています。

2004年(平成16年)に山をくり抜き全長1,857mの帆越トンネルが出来ました。このトンネルの手前に旧道があるので岬に行くことができますが危険です。
帆越の命名については、松浦武四郎の「「西蝦夷日誌」に、「ホグシは帆卸の轉か。此岬を過る時は必ず帆を少し下げ太田山を拜し行が故號ると」とあり、太田神社を敬って、通る船の帆を下げたという説があります。

美濃の国の「円空上人」は寛文6年(1666)に太田山にこもり、岩窟内で数多くの木彫仏像を作りました。
さらに、安永7年(1778)には甲斐の国の木喰上人が訪れ、円空の仏像に感動し自らも仏像を作ったといわれています。二人が作った仏像は焼失・紛失しましたが、その後復元されたものが太田神社拝殿近くの保管施設に3体展示しています。

毎年6月27日~28日には大漁と海の安全を祈る例大祭があります。27日には白装束の若者が行う本殿までの御山掛けを。
また、大漁旗をなびかせた漁船群の海上渡御、花火なども実施されます。しかし、最近は村の高齢化で難しくなっているといいます。

太田神社

国道229号沿いに「道の駅てっくいランド大成」があり、道の駅を過ぎて宮野地区の交差点を右折すると内陸に入っていきます。
私が初めて太田神社を訪れた時は宮野から道道760号を北上しました。添泊岬の富磯地区を過ぎると帆越山が前方に見えてきます。標高321mの山が海に突き出ており、この山を越すと太田神社でした。

油絵 太田神社拝殿から

太田神社拝殿から本殿のある太田山山頂を見上げると、不思議な世界に引き込まれました。

『むかしむかし、この蝦夷の地に敦賀から来た暴れ者がおりました。アイヌの人たちが和人に挑んだ戦いに、この男はひとり悪知恵をつかい勝利を収めます。それいらい、この男に文句をいう人はいなくなりました。この男が、アイヌ集落のある太田に上陸したときに、山の頂にある祠に太田大権現の尊号を賜ります。以来、この航海の安全と霊神の 加護としてみんなは信仰するようになりました。この男の名は「たけだのぶひろ」、松前藩の祖となるひとでした』

太田神社は太田山の険しい山頂にあるため拝殿は岸壁にありました。
すぐその横にある灯台は道内最古のもので「定燈籠」(じょうとうろう)といいます。青銅製でどの方向から見ても「太田」の文字になっており、夜にともる灯りは、より民話や童話の世界に似合います。


阿部比羅夫の伝説も伝わる所で話題に事欠きません。

2013年(平成25年)に太田トンネルが完成し全線開通となりました。
二度目に訪れた時は逆のコースで太田トンネル(3,360m)を通過して小さな太田村にでました。道道760号の区間は約33キロありますが、岬とトンネル、そうして海に迫る威厳のある沿岸風景は北海道の海岸でも別世界と思いました。


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