蝦夷の時代24 アイヌ民族蜂起の背景
写真はシャクシャインのチャシが遺跡として残る新ひだか町・真歌公園入口です。新ひだか町静内の市街地から静内川を渡るとすぐ左に上がる道があります。
砂金と鷹待
松前藩は、本州の藩のような米高がなく米を本州の商人から入手していました。
米・酒・煙草・鉄製品・古着・漆器などを藩主の商場に行き、アイヌ側の干鮭・熊胆・鹿皮・オットセイなどと交換し、その物品を松前で本州商人に売却して利益を得ていたのです。
蝦夷地に和人地のエリアがありましたが砂金と鷹だけは別物でした。
特に鷹の売り代金は藩主財政の三分一前後をしめており、幕府の軍事権力のシンボルともいえる放鷹・鷹場制度、鷹・鷹の獲物をめぐり献上・贈答の儀礼が蝦夷の鷹を後押ししていたのです。
松前藩にとっては砂金も鷹もアイヌ漁猟とは関係ないため、蝦夷の奥までの出入りを許可し、しかも税の対象とし大きな資金源でした。
17世紀の後半には、この鷹待(鷹を捕まえる者)や砂金掘りが蝦夷地に多数入り込んでいました。
蝦夷地に入り込んだ和人たちには、江戸で挫折した武士たちも多くアイヌの首長たちには江戸幕府の情報源となり、本州商人にとっては蝦夷地を知る情報交換を対等のものとしていたのです。
石狩の首長ハウカセには近江八幡出身の金太夫が婿になって補佐をし、ハエクルのオニビシは金掘り文四郎を相談相手に持ち、メナシクルのシャクシャインは、鷹待で女婿になった越後の庄太夫のほか、作右ヱ門(庄内)・市左衛門(尾張)・助之進(最上)らの和人が側近をかたちづくっていました。
和人たちの情報源が静内のシャクシャイン蜂起の一因ともなりました。
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