蝦夷の時代13 徳川家康の黒印状(制書)
蠣崎慶広は文禄2年(1593)3月末に帰郷しました。
秀吉より正月5日に与えられた朱印状(制書)を提示するとともに、東西のアイヌを集めて朱印状をアイヌ語で読み聞かせました。
そして、もし志摩守の命にそむいたり、諸国よりきた和人に乱暴すると、関白様は数十万の大軍をもって成伐にくるぞ、と威令を示しました。
慶広には九戸征伐や朝鮮出兵の見た太閤軍団の驚異的規模が脳裏にあったのでしょう。
蝦夷に対する支配権は、ここで統一国家権力から保証されましたが、全道におよぶのはまだ先のことでした。
秀吉が亡くなった翌年の慶長4年(1599)冬、慶広は大阪城で家康に会い、蝦夷島地図や家譜を献じ、姓を「松前」と改めます。
慶長8年(1603)冬、江戸に参勤した慶広は、翌9年(1604)正月、征夷大将軍家康より黒印の制書を授けられました。
徳川家康の黒印状(制書)
この黒印状は札幌の厚別区にある北海道博物館が保存しています。
秀吉の制書が交易徴税権の承認であったのに対して、家康の制書は「松前氏の許可なく蝦夷交易ができない」こと、すなわち独占権を与えたことでした。
このことが後々、アイヌ民族に悲劇をもたらすことになります。
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