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蝦夷の時代11 アイヌと和睦策


蠣崎三代目の義広時代にも東西のアイヌ蜂起がありました。義広はこれを討っています。(1528年)
しかし、四代目季広の時に和人とアイヌの交易に一つの決まりを設けました。

アイヌ商船往還の制 

蝦夷(北海道)の物産は、昔も今も変わりません。
16世紀においても京(京都)では珍しいものとして高値で取引されていました。自由に和人と交易をしたいアイヌと、アイヌとの取引を独占したい蛎崎氏とは、常に睨み合いが続いていました。

いつの世も同じですが、蛎崎を通すことでアイヌは安値となり常に言い争いになっていました。
しかし、京への流通を持つ蛎崎は、アイヌの人たちには魅力的です。
四代目蛎崎季広(すえひろ)は、いつまでもアイヌとの衝突をしていても得策ではないと考えて策を練ります。

季広の時代は1551年のころでザビエルが鹿児島に上陸したころです。
徳川幕府まで後半世紀です。

季広(すえひろ)は、アイヌの重宝する数々の宝物を与えて、彼らと親しくする姿勢をとります。そうして「アイヌ商船往還の制」を定めました。
その内容は下記のとおりです。

1 瀬田内(現瀬棚)の首長ハシタインを上ノ国に置いて西夷の首長
2 知内の首長チコモタインを東夷の首長とし、諸国から集まる商人から徴
  集した税の一部を、夷役と称して両首長に配分する。
3 上ノ国から知内までを通る船は中間にある蛎崎がとる。
4 交易の場を松前(福山)に限定する。

ただし、内地から来る商人にはこの制度は関係ないとし、奥地に入るものは取引自由。

これによって、アイヌの人たちの長2人をそれぞれ現在の上ノ国と知内に住まわせ、両地をもって以北をアイヌの人たち、以南を和人の居住域とし、本州商船から徴収した税の一部をそれぞれの長に分配しました。
また、海上を航行するアイヌの人たちの船は、西は上ノ国沖、東は知内沖で、帆を下ろして一礼し、往来するようになりました。

両首長は了承し、100年に渡って続いていたアイヌとの戦いに終止符がうたれました。

しかし、これに乗じて五代目慶広の代に大きな展開をおこなうこととなります。

武田信広((蛎崎の初代で後の松前藩始祖)の家系は、信広の「広」を取り全員に広を入れています。


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