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観光客が行かないディスカバー上士別巡り

わたしたちのまち士別(小学生の副読本から)

<上士別のなりたち>

1900年(明治33)年に新潟県人が入植したのが開基の始まりと言われています。その後、個人と団体の入地が相次ぎました。特に、奈良県吉野団体は大規模なものだったそうです。他に、山形県や徳島県からの入地もありました。上士別村は、天塩川の肥沃な沖積土に恵まれ、畑作、稲作、酪農といずれも飛躍的な発展をとげました。

上士別町の風景 小西春美の世界

                〈春〉
  田植え前、水田に水が張られると周りの景色が鏡の様に映し出される。

               〈夏〉
     畑の黄色い花々が、日光を浴びて笑っている様にみえる。

     

               〈秋〉
  水田の稲が実り誇らしげに風に揺れている。農家にとって至福の景色。


                〈冬〉
晴れた日は雪の結晶が日光を反射して、木々も雪原もキラキラ眩く輝いてる。

上士別 世帯数と人口推移
  年次         世帯数    人口
 1913年(大正2年)    1004戸    5926人
  16年           1384戸     7983人
  20年           1187戸     7383人
  33年(昭和8年)         1691戸      10138人 
  43年             1648戸         10226人
  49年               1243戸      7556人
  51年(昭和26年)             1248戸      7575人
2012年(平成24年)             382戸        989人
2022年                  319戸     717人

ディスカバー上士別

川南16線5号
上士別地区は早くから開拓が進みました。
天塩川と数多くの支流に囲まれたこの地区は、肥沃な土地に恵まれ、農産物の収穫も良かったのです。
明治33年に川南地区へ51戸が集団入植、富山虎三郎をリーダーに253ヘクタールの貸付けを受け、明治42年に最終検査を受け付与されました。
すでに現在の川南16線5号の交差点には商店や住宅が立ち並んでいました。

吉野団体

奈良県吉野郡十津川村は明治35・36年と不景気が続き、明治22年に新十津川に集団移住した先輩(600戸)のあとに続きたいと北海道庁に移住の申請を出します。
544戸にのぼり新十津川村だけでは土地が狭く、士別村上士別原野を新たに指定しました。明治37~38年に分けて十津川村外十箇村の大移動となります。
これを「吉野団体」と呼ばれました。ところが、希望者が多く土地家屋を売却するのですが売却できずに断念せざるを得ない人たちもおりました。
吉野団体は上士別に二か所に分かれて入植します。一つは25線から29線にかけて(その後の兼内地区)、もう一つは川南の16線から20線にかけての成美地区でした。

朝日町(御料地)

明治に入り官有林・原野・鉱山などの皇室財産の土地の呼び名を御料地としました。明治38年に森林の御料地貸下げによって開拓の歴史が本格化します。
本通に杉本由松、北1線付近に溝口太平が入地。翌年から福島・島根・香川県などから入地が相次ぎ、開拓が急速に進展しました。
明治末から大正期にかけて木材需要が増え、昭和初期には灌漑工事も行いました。
昭和24年に上士別村から分村にあたり朝日村とします。
「あさひ」の名は、母村の東側にあり朝太陽が昇るのが早いことから。
大正9年、馬鉄による士別―奥士別(朝日)間の軌道事業の営業を開始した士別軌道㈱は、輸送力の増強のため昭和3年蒸気機関車を導入。戦後の森林伐採で士別駅―上士別駅―朝日駅と軽便が走り、士別駅は木材集積駅となりました。
路線のドル箱上士別は、木材・穀類、日用雑貨・石炭・魚類の搬入などで賑わい駅舎は官公庁並みの立派なものでした。
昭和33年に全線廃止されるまで沿線住民の交通機関の役割も果たしました。

劇場「栄座」

明治43年に町の有志が共同出資し、間口12.7m奥行18m観客600人を収容できる広壮な建物が上士別町に出現しました。巡業芝居や青年団、婦人会などに利用され、トーキー映画、カラーと時代と共に推移し、戦後は移転新築されました。
上士別には劇場が「新栄座」と二件ありました。

畠山みどり(コロンビア専属歌手)

「恋をしましょう恋をして ・・・」昭和38年、歌謡界を風靡したこの歌は、士別で練られた歌でした。
畠山は4才の時に稚内から下士別の祖父のもとにひきとられ、下士別小学校、中学校を終え、士別高校卒業後デザイナ-を志して上京。
しかし、母の進めで船村徹に師事。下士別から徒歩で通学の際、士別橋でひと休みするときには、好きな歌を口ずさんだといいます。昭和37年10月郷土訪問を機会に講演会が結成されました。

岩尾内ダム

朝日町の岩尾内湖から上紋峠に向かう途中、左手に似峡岳(標高744.8m)があります。似峡の語源はアイヌ語のニ・サム・ナイ(木・傍・川)で、木の傍にある川です。
岩尾内湖は岩尾内ダムの建設によってできたダム湖です。
このダムに沈んだ集落が似峡と呼ばれていました。
最盛期には約170戸・人口800人ほどの人々が住み、小学校および中学校、郵便局、駐在所、消防団詰所、診療所、農協支所、鉄工所などがあり、昭和30年代には朝日町本町に次ぐ賑わいがあったといいます。
1963年(昭和38年)に岩尾内ダム建設に着工。
1970年(昭和45年)にダムが完成し、それ以降は洪水被害が皆無となりましたが、似峡集落は湖底に沈んでしまいました。
しかし、ダムの貯水量が減る10月以降に、かつての似峡集落の跡地を訪れることができます。岩尾内湖白樺キャンプ場の駐車場が似峡地区への入り口となります。

旧成松呉服店⇒旧小林菓子店

水彩画 旧成松呉服店

水彩画は、上士別町で今は一番古い建物となりました。
市街地交差点角にあります。

昭和7年に「成松呉服店」として建てられたもので、昭和42年に「小林菓子店」に譲渡され、平成13年(2001)に取り壊す話が出た時に上士別歴史保存会
を主宰されている方が譲りうけました。
この建物内部を撮影させてもらった映像を公開しています。


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