観光客が行かない枝幸町の旅・後編
歌登町(うたのぼりちょう)は、北海道北部、宗谷支庁南東部に存在した町です。2006年、隣接の枝幸町と合併し廃止となりました。
町名の由来はアイヌ語のウタ-ヌプリ(すりばち型の-山)からです。
この地の開拓のはじまりは明治30(1897)年、秋田県書記官の桧垣直右が上幌別原野に申請を出し、管理人と雇人3名が入地し、ムギ・ソバ・キビなどを試作。
その翌年石川県から15戸が入植したことに始まります。 (桧垣農場)
大正2年澱粉製造が試みられ、農業の主産物はジャガイモへと移行。
第一次大戦の影響もあり澱粉の景気が良く、当時は小規模工場の新設が相次ぎました。
昭和4年にパンケナイに金鉱が発見され、翌年操業開始となりました。
この頃、乳牛が導入され酪農のはじめとなり、明治末から盛んだった造材業に加えて、大日本ベニア工場も創設され活況を呈します。
しかし、戦後になると食糧政策の転換や冷害が続き、次第に酪農を奨励していくことになります。
1960年(昭和35)代には乳牛飼育数、千頭を突破し乳量は1万石となり、肉牛も導入されました。
昭和37年に町制施行しましたが、鉱山の閉鎖、農業経営の窮迫で離農がはじまり、過疎化が進みました。
健康回復村
昭和50年代から「健康回復村」を設立し、ゴルフ場・テニスコート・森林浴広場などが設けられ、温泉付きホテルも営業し、憩いの場となっています。
枝幸線・幌別線・本幌線
昭和8年11月には上幌別から分岐して幌別線上幌別6線ー志美宇丹間12.6キロが完成。
昭和10年には、上幌別12線から分岐の本幌別線上幌別12線ー本幌別27線間10キロが完成。
このように、植民軌道枝幸線・本幌別線・幌別線は歌登村の大動脈として活躍してきましたが、昭和23年に植民軌道から簡易軌道に改められ、運営が道庁から運行組合に移されました。
これまで補修がほとんどなされておらず、組合での莫大な支出は不可能で昭和26年12月には村営移管となり、歌登村営軌道として運行が続けられました。
沿線の人口減少と自動車の普及で赤字となり、枝幸線枝幸ー歌登間は昭和26年、本幌別線は昭和31年、幌別線は昭和44年、歌登線歌登ー小頓別間は昭和45年に廃止になりました。
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